張ダビデ牧師 – 新しいイスラエルの生き方


1. キリストにあって新しいイスラエルとして生まれわる旅

ローマ書12章1節から13節までの御言葉は、使徒パウロが私たちに「救われた者として、これからどう生きるべきか」を具体的に示している内容です。パウロはローマ書1章から8章までで救いの深遠な神秘を教え、9章から11章までではイスラエルと新しいイスラエルに関する歴史的意味を説明しました。この流れを通して私たちは、神の救済史の中には“中心史(主流史)”と“周辺史(周辺史)”があり、中心史は神が選ばれた民を通して歴史が導かれていく、という事実を悟ることができます。この文脈において「新しいイスラエル(New Israel)」とは何であり、私たちがキリストにあっていかにして新しいイスラエルとして生まれ変わることができるのかという重要なメッセージが示されているのです。張ダビデ牧師は、このローマ書の救済論と歴史論を基盤に、「救われた後に始まる新しい生き方」そして「イエス・キリストの弟子としてどう生きるべきか」を強調しています。

パウロが語る新しいイスラエルは、私たちの物語にも適用できます。旧約時代には選ばれた古いイスラエル(Old Israel)が存在し、新約時代に移り変わる中で、イエス・キリストを救い主と信じる異邦人たちを含む新しいイスラエルが誕生しました。パウロはローマ書9章から11章を通して、「新しいイスラエル」がいかに形成され、神の救済史がどのように拡張されていくのかを説明します。古いイスラエルは不従順を続けたゆえに、切り落とされた枝のようになり、その空いたところに異邦人が接ぎ木される過程が描かれますが、これこそが教会の起源でもあるのです。したがって今日、イエスを信じる私たちは「新しいイスラエル」に属する者として、歴史を導かれる神の計画の中で中心史を形成する“創造的少数者(creative minority)”としての召しを受けている点が重要です。

この概念をさらに具体的に理解するには、創世記6章にある「神の子たち」と「人の娘たち」の物語を振り返る必要があります。ここで言われる「神の子たち」とは、神が選び分かたれた者たちを意味します。ところが彼らが「人の娘たち」と結婚し、世と混ざり合ってしまった結果、ノアの洪水という審判が下されました。イエス様は「ノアの時代に起こったことのように、人の子の時代にも同じことが起こるだろう」(ルカ17:26)と語られました。つまり、神が選ばれた者が世に染まって罪の道を歩めば、その審判が臨み得ることを警告されたのです。張ダビデ牧師が多くの説教で強調するのも、この点です。私たちは世と妥協して生きるのではなく、キリストにあって聖なる者として区別されて生きなければなりません。世の風潮に倣わず、心を新たにすることで自らを変革し(ローマ12:2)、神が喜ばれ、かつ完全なる御心を見分けるべきだというのです。

パウロはローマ書8章で「被造物は神の子たちの現われを切に待ち望んでいる」と言いました。神の子が現われ、新しいイスラエルが立ち上がるとき、この地に神の国が到来するからです。張ダビデ牧師はこれを、教会が担うべき終末論的使命と結びつけて説き明かします。救われた後には必ず終末論を悟らなければなりませんが、それは単に終末の徴候を予言して恐れる次元ではなく、「神の国」をこの地に具現するように召されていることを認識することです。創世記9章と49章、そして黙示録22章に出てくる「巻物を洗う」というイメージは、「行いを清める」ことを意味します。イエス・キリストの十字架によって罪の赦しを受けたなら、日常生活においても絶えずその衣を洗い清めるべきだということです。世的な罪の習慣を捨て、聖別された生き方をすることこそが、新しいイスラエルの証しなのです。

パウロが救済論(ローマ1~8章)、歴史論(ローマ9~11章)を説き、続いてローマ書12章で「実践論」を語る流れは非常に論理的です。救われた者、そして神の歴史の中で新しいイスラエルとなった者は、ではどう生きるべきか。それは「人生全体が霊的な礼拝」にならなければならない、ということです。救われた者の生き方自体が礼拝であり、この礼拝は教会で捧げる形式的な礼拝にとどまらず、私たちの日常生活のあらゆる現場に拡大します。張ダビデ牧師が、様々な礼拝や説教で「人生そのものが礼拝でなければならない」とメッセージを伝えているのも、この点に基づいています。

パウロは私たちに「あなたがたの体を、神が喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい」(ローマ12:1)と勧めます。これは、私たちの生涯全体を神に差し出す献身を意味します。もはや自己中心的な生き方ではなく、隣人のために犠牲し奉仕する生き方を言うのです。世の人々はたいてい「自分のもの」を優先しますが、イエス・キリストの弟子として召された私たちは、まず他人のために犠牲する道を選ぶべきです。これこそが新しいイスラエルが歩む道であり、歴史において中心史として創造的少数者の役割を担う者たちの特徴でもあります。

あわせてパウロは「この世に倣ってはいけません。むしろ心を新たにすることで自分を変革し、神の善で、喜ばれ、かつ完全な御心をわきまえ知るようになりなさい」(ローマ12:2)と強調します。ここで言う「この世」とは、世の価値観や風潮を指します。世の中は「より多く得ようとする欲」と「互いに損得を計算する利己心」が支配しています。しかしキリスト者は、この世の流れに流されるのではなく、日々心を新たにしなければなりません。心が新たにされるとは、イエス・キリストの心を自分のうちに抱くことであり、その心こそ聖書が語る神の御心に従順する道なのです。

張ダビデ牧師は、「歴史を読む目」と「終末論的使命」を同時に持つように繰り返し強調しています。私たちが単に個人的な救いに満足するのではなく、救われた者たちがいかに集まって教会共同体を形作り、その教会が世の中でどのような影響力を発揮すべきか、さらに救済史全体の流れの中でどんな使命を担うかが重要だからです。イスラエルと新しいイスラエルに対するパウロの教えは、今日のキリスト者に「神の選びの目的」が何であるかを悟らせてくれます。選びを受けたということは、決して自慢や特権意識に浸るのではなく、その選びを通してむしろ低いところに下り、奉仕と犠牲に生きることを示しているのです。

特に創世記におけるヤコブの物語は多くを示唆します。ヤコブがエサウとどのように和解したかを見ると、ヤコブはエサウに七度もひれ伏して兄と和睦しました。イエス様はこれよりもさらに進んで「七度を七十倍するまででも赦しなさい」(マタイ18:22)とおっしゃいました。この御言葉は教会共同体の中だけでなく、個人間や社会・民族間の葛藤においても、究極的な解決は「和解と赦し」にあることを示しています。張ダビデ牧師がこうした「隔たりの壁を打ち壊す精神」を常に強調し、十字架こそその壁を取り壊す鍵だと教えるのもこのためです。エペソ書2章16節でパウロは「敵意を十字架によって滅ぼされた」と述べましたが、これはまさしく十字架が神の赦しと和解を具現する場所だからです。教会はこの十字架の精神を受け継ぎ、互いを敵に回して壁を築く世の風潮に対抗して「コイノニア(koinonia)」を実現しなければなりません。

「コイノニア」はギリシャ語で「交わり」や「交際」を意味しますが、単なる親睦ではなく、十字架によって隔たりの壁を取り壊す霊的な交わりを指しています。パウロは「ケリグマ(kerygma)」、すなわち御言葉の宣教によって救いの福音を伝えることに力を注ぎ、それを受け入れた者たちが共に交わりを成す「コイノニア」を大切にしました。私たちが救済論と歴史論を悟ったなら、次に教会の中で互いの隔たりを取り除いて真の交わりを成さなければなりません。その交わりの中で兄弟愛が実現するとき、私たちは初めて世の人々とは異なる姿、すなわち新しいイスラエルの証しを示すことができるのです。

しかしコイノニアで終わりではありません。コイノニアが成就したなら、次の段階として「ディアコニア(diakonia)」へと進む必要があります。「ディアコニア」とは「奉仕」「仕え」を意味します。ローマ書12章13節でパウロは「聖徒たちの必要を満たし、旅人をもてなすことに努めなさい」と語っています。これはディアコニアの具体的な姿です。もし愛しているなら、その人が必要としているものを実際に与えることで表されるはずです。ヤコブの手紙の著者も、「『安心して行きなさい。温かくして食べてください』と言いながら、その人の身体に必要なものを与えないのだとしたら、いったい何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2:16)と指摘しました。愛は言葉だけではなく、行動によって示されなければならないのです。

このようにローマ書12章1~13節は、私たちの「実践的な礼拝」が何であるかを示す核心的な教えを含んでいます。パウロは「この世に倣わず、心を新たにしなさい」と言う一方で、「キリストにあって私たちは一つの体であり、互いはその部分である」と強調します。そして最終的に「聖徒たちの必要を満たしなさい」と締めくくります。張ダビデ牧師はこれを私たちなりに言い換えながら、実際に必要としている人がいれば、さらに多く与えるように勧めます。たとえば宣教地でノートパソコンが必要だという話が出れば、「一台だけ」ではなく、できる限り多く送ってあげようというのです。これがイエス様が教えられた「もし一ミリ行くように強いるなら、共に十ミリを行け」(マタイ5:41)という黄金律であり、「求める者には与え、借りたいという者を断るな」(マタイ5:42)という御言葉を実際に実行する姿勢だというわけです。教会は「新しいイスラエル」として、互いの必要を満たし合い、一つの体となって世界の至る所で福音と愛を届ける責任を担っています。

ローマ書12章でパウロが伝えたかった核心は、「救われた者、神の歴史を知る者ならば、その信仰を『実践的な生き方』で証ししなさい」ということです。救いは単なる教理的知識で終わるのではなく、生活の変化につながらなければなりません。キリストの愛を抱き、世の風潮に逆らう道を歩み、互いに愛し尊重し合い、最終的には自分のものを分かち与える犠牲の人生を生きるとき、それが「霊的な礼拝」となるのです。

張ダビデ牧師は、こうした原理を教会内外で強調し、礼拝堂で捧げる礼拝だけでなく、私たちの日常の中で表れる仕えこそが真の礼拝だと力説しています。教会は諸国に宣教地を拓き、互いに助け合い、必要なものを惜しみなく供給する姿によって神の国の拡張を成し遂げるべきです。霊的な骨組み(骨格)がいくらしっかりしていても、それだけでは足りず、筋と肉(具体的な愛と奉仕)が伴わなければ、教会共同体は大いなる軍勢として立ち上がれないというエゼキエル37章の幻も、私たちに実践を促しています。すでに神が恵みによって骨組みを立ててくださったのなら、そこに筋と肉を加えて生気に満ちた教会を建て上げるべきです。それこそがディアコニアの精神であり、ローマ書12章が教える「聖徒たちの必要を満たしなさい」という具体的な命令なのです。

このすべての教えの根底には、イエス・キリストご自身が身をもって示された愛があります。主は「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか」と問われ、「わたしの羊を飼いなさい」と命じられました(ヨハネ21:15-17)。主を愛するなら、主の羊を養うことで証明しなければなりません。教会や共同体の中で、そして宣教地や隣人に対して、実際に必要とされているものを供給することで、その愛を表せるのです。これこそ、新しいイスラエルとして召された私たちが歩むべき道であり、ローマ書12章のメッセージと張ダビデ牧師の実践的な教えが示す核心でもあります。


2. 聖徒のディアコニアと実践礼拝

新しいイスラエルとして生きるには、必ずディアコニアと実践的礼拝が伴わなければなりません。パウロがローマ書12章で示す具体的な勧めは、キリスト者が日常の中で「生活で礼拝を捧げる」方法を教えています。張ダビデ牧師は、こうしたパウロの教えが「救いの教理」(ローマ1~8章)と「イスラエル・新しいイスラエルの歴史論」(ローマ9~11章)を完成させる実践論であると説きます。どんなに教理を学び、歴史を深く理解していても、愛を生活の中で実行しなければ、すべての知識は無意味になってしまうからです。

ローマ書12章1節でパウロは「そういうわけで、兄弟たち。神の憐れみによってあなたがたに勧めます。あなたがたの体を、神が喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。これこそあなたがたの霊的な礼拝です」と宣言します。ここで使われる「そういうわけで(그러므로)」という接続詞は、前で語られた救いと歴史に関するすべての説明が、今結論へとつながることを示唆しています。救われた者はどう生きるべきか。その答えこそ、私たち自身を生きた捧げものとして差し出す人生です。かつては動物のいけにえを捧げて神に礼拝したなら、今はイエス・キリストの十字架によって救われた私たちが、私たちの生き方をすべて捧げる必要があるのです。これが「生きた状態で絶えず神に捧げられる」ことですから、「霊的な礼拝」となるわけです。

生き方自体が礼拝となるためには、まず世の価値観に染まらず、日々心を新たにする必要があります(ローマ12:2)。世は自己満足と利己心に焦点を合わせますが、神の子どもは自己犠牲と隣人愛に焦点を合わせます。そこでパウロは、賜物を与えられた者たちがその賜物をどう用いるべきか、互いに体の部分としてどう仕え合うべきか(ローマ12:3-8)を具体的に語ります。そのすべての教えの結論が「聖徒たちの必要を満たし、旅人をもてなすことに努めなさい」(ローマ12:13)という御言葉へとつながるのです。ここで「聖徒たちの必要を満たす」というのは、単に物質的に困っている人に財政的援助をするだけを意味しません。ときには霊的な慰め、共感、ケアなど、多様な形の「必要」を満たすことを含みます。

張ダビデ牧師は、このローマ書12章13節を「ディアコニア」の本質として解釈し、教会が実践しなければならない最も大切な働きだと強調しています。教会は御言葉を宣べ伝えてケリグマをもたらし、その御言葉を受けた者たちが共に交わりを成すコイノニアの喜びを味わいます。けれどもそこで終わってはなりません。キリストの愛があふれ出し、実際に誰かの必要を満たす奉仕と仕えにまで至らなければいけないのです。それがディアコニアです。このディアコニアが活発に行われるとき、教会共同体は骨が生き返り、筋と肉がついて大いなる軍勢になるというエゼキエル37章の幻を実現することになります。

では、具体的にどのようにして「聖徒たちの必要を満たす」ことができるのでしょうか。張ダビデ牧師はいくつかの例を挙げて説明しています。身近な例では、海外の宣教地でノートパソコンや車両、あるいは医療用品などが必要だと要請があれば、それを惜しみなく送ることが愛の実践です。これはマタイの福音書5章41~42節でイエス様が教えられた「もし一ミリ行くように強要されたら、いっそのこと十ミリまで行ってあげなさい。求める者には与え、借りたいという者を断らないようにしなさい」という黄金律を守ることです。相手が一つを求めるなら、むしろ二つを与える態度がイエス様の弟子の姿勢なのです。この愛の実践は、「あなたを愛しています」と口で言うだけでなく、実際に必要なものを与える具体的な行動として表れます。

さらにこれを、教会が個人的・地域的に行う奉仕を越えて、世界的にネットワークを築き、互いに協力し合う「世界宣教のビジョン」へと拡張することが求められます。張ダビデ牧師はG20という概念を引用しつつ、この地の様々な国々に建てられる教会が互いに助け合い、また他の国にも教会を建てていくことで神の国を拡大すべきだと説きます。ある宣教地は物質的資源が豊富でも霊的資源が乏しいかもしれませんし、別の宣教地は人的資源に恵まれている一方で財政が脆弱かもしれません。教会が一つの体となり、この不足部分を補い合うことで世界各地に神の福音が力強く伝えられるのです。これが「聖徒たちの必要を満たす」ディアコニアの拡張された姿だと言えます。

ローマ書12章9節以下では「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟を愛して互いに親しく交わり、尊敬することにおいては互いに先を譲り合いなさい。怠らず励み、霊に燃えて主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、苦難に耐え、常に祈りに励みなさい。聖徒たちの必要を満たし、旅人をもてなすことに努めなさい」と語られます。これらの勧めはいずれも実践的なレベルに関わります。愛しなさいと言うだけでなく、具体的にどう愛すべきかを示しています。兄弟を尊敬し、熱心に主に仕え、希望を抱いて苦難を忍耐し、絶えず祈り、最終的に具体的な援助をしなさい、というわけです。私たちの生活の中で誰かが必要だと訴えたとき、その要求を積極的に聞き、さらに「彼(彼女)が言葉に出せなかった必要」はないかを見つめて先んじて与える態度が、真の愛なのです。

教会共同体がこうしてディアコニアを実践するとき、世は教会を通してイエス・キリストの姿を見ることになります。初代教会の時代に信じない人々が教会を見て「見よ、彼らが互いに愛していることはなんと素晴らしいことか」と驚嘆したように、今日の社会でも真の愛と奉仕の姿が見当たりにくいこの時代に、教会がローマ書12章の御言葉に従って具体的に仕えるならば、大きな感動を与えるに違いありません。これこそ教会が担う「世の光」と「地の塩」の役割であり、福音を伝える最も効果的な手段とも言えます。

しかし、このような実践は容易ではありません。人間は本質的に自己中心的であり、依然として世の風潮に染まりやすいからです。そこでパウロは「あなたがたはこの世に倣ってはいけません」と切実に勧告しています。また、ディアコニアが行われるためには、教会内部における「壁を壊す作業」が先に必要です。エペソ書でパウロは、十字架が敵意を打ち壊す力だと述べていますが、これは教会内に生じる葛藤や偏見、差別、そして互いに対する誤解などを十字架の精神で解消しなければならないことを意味します。こうしたプロセスを経てコイノニアが成し遂げられ、ようやくディアコニアが可能となるのです。

張ダビデ牧師は、複数の説教において聖書を読む際に「恐れを感じる箇所」が必要だと繰り返し語っています。たとえばヤコブが兄エサウに会うために七度もひれ伏す場面(創世記33:3)を読むとき、私たちは「私はあれほど純粋な和解の身振りができるだろうか?」と自問するでしょう。同じ文脈でイエス様が「七度を七十倍するまで赦しなさい」とおっしゃったとき(マタイ18:22)、人間の限界を超えた赦しを要求される主の命令に恐れを感じるものです。しかし、そのような恐れは私たちを絶望に追い込むためではなく、むしろ聖霊の助けによってその愛の水準に少しでも近づこうとする動機を与えるものです。最終的に教会が「七度を七十倍」赦しと和解を実践するならば、世ではおよそ見つけることが難しい水準の愛が教会に実現されるはずです。

これこそが「新しいイスラエル」の生き方です。古いイスラエルが律法を守れずにつまずいたなら、新しいイスラエルとして召された私たちは、イエス・キリストの十字架を見上げ、日々悔い改め、自分を低くして聖徒に仕えなければなりません。パウロはローマ書12章の前後だけでなく、コリント第一の手紙やエペソの手紙、ガラテヤの手紙など、複数の書簡を通して絶えず「愛をもって互いにしもべとなりなさい」というメッセージを伝えました。教会が世と区別される点はまさにこの「愛の実践」であり、それこそがディアコニアの完成となるのです。

さらに、このディアコニアは福音の宣教とも密接に関係します。単に慈善活動や社会奉仕に留まるのではなく、イエス・キリストの御名によって行わなければなりません。パウロも宣教活動の中で諸教会を世話し、エルサレム教会のために献金を募り、異邦人教会とユダヤ人教会が一つとなるように仕えました。私たちはこうした姿をディアコニアの典型として見習う必要があります。私たちの奉仕が人々に「人間的な温かさ」としてだけ伝わるのではなく、「ああ、これがイエス・キリストの愛なのだ」と実感できるように、福音的なメッセージが土台にあることが大切なのです。

「実践的礼拝」としてのディアコニアは教会の中から始まるべきです。まず信徒同士が互いの必要を探し、満たすことを学ぶとき、その愛が自然に教会の外へと流れ出し、社会的奉仕や分かち合いへと拡張されます。張ダビデ牧師は、教会が内面で信徒を大切にしていなければ、外に向かってどんなに華やかな宣教やイベントを行っても、その真実味が疑われると指摘します。「聖徒たちの必要を満たす」という言葉には、最も身近な兄弟姉妹の状況を注意深く見守り、助けるという意味が含まれています。こうして内側から愛があふれるとき、それは外へと自然に流れ出て、真の「世の光」となることができるのです。

ローマ書12章にある「聖徒たちの必要を満たし、旅人をもてなすことに努めなさい」という御言葉こそが、現代の教会が回復すべき核心であり、同時に個人の信徒が「本物の礼拝」を確認する指標でもあります。1時間の礼拝堂礼拝だけで終わるのではなく、その礼拝で受け取った恵みと御言葉を持って、日常生活の中で、近くにいる隣人や宣教地、他国の兄弟姉妹へと具体的な助けを提供するのです。パウロが語る「人生こそ礼拝」という命題は、最終的にこのディアコニアが実践されるときに完成します。

張ダビデ牧師は「もし私たちがキリストを愛するならば、必ず主の羊を養いなさいと命じられた御言葉を実践しなければならない」と力説します。養うとは、単に食物を与えるだけでなく、霊的に必要な御言葉を与え、物質的に困っている人には必要な資源を提供し、心が疲れている者には慰めを伝えるなど、そのすべてを含むのです。教会共同体は、この「羊を養う働き」のために互いに協力し、それぞれ与えられた賜物を活かして奉仕に参加する必要があります。ある人は教えることが得意であり、別の人は慰めやケアが得意かもしれません。また財政的に豊かな人は物質を分かち合うことができ、行政能力に優れた人は組織を円滑に運営できるでしょう。こうした多様な賜物が集まって一つの体を成すとき、教会は大きな影響力を発揮できます。

したがって、ディアコニアはちょうど身体の中の筋肉のようなもので、骨格だけが頑丈でも機能しない人間が、筋肉によって動き、力を発揮するように、教会共同体もディアコニアによって実質的な行動力を得るのです。エゼキエル37章が語る「大いなる軍勢」とはこうした姿を意味します。谷の干からびた骨が立ち上がるためには生気、すなわち聖霊の働きも必要ですが、その骨を結び合わせる筋と肉がなければなりません。既に私たちにはイエス・キリストを信じる信仰という骨格があります。そこに奉仕と愛という筋肉と肉を加えなければなりません。これがなければ、教会は「干からびた骨」と大差ありません。

このようにローマ書12章1~13節のメッセージを具体的に実践していく過程で、私たちは初めてイエス様が語られた「真の弟子道」を学びます。主は弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)とおっしゃり、また「わたしがあなたがたに模範を示したのだから、あなたがたもそのとおりに行いなさい」(ヨハネ13:15参照)とおっしゃいました。イエス様は直接弟子たちの足を洗い、五つのパンと二匹の魚の奇跡を通して飢えた群衆を養い、罪人と共に食卓に着かれました。これらすべての場面がディアコニアの手本といえます。教会がイエス様のこうした愛を実践するならば、世は教会を通して神の国を垣間見、福音に触れる機会を得られるでしょう。

忘れてはならないのは、このすべてのディアコニアが単なる人道的な奉仕や慈善事業にとどまらず、「霊的礼拝」の延長線上にあるという点です。救われた私たちが当然捧げるべき生けるいけにえなのです。張ダビデ牧師は「神が喜ばれる聖なるいけにえとなりなさい」というパウロの勧め(ローマ12:1)を味わいながら、本当の礼拝は結局、自らを犠牲にする現場の中で実を結ぶのだと語ります。礼拝堂で美しい賛美を捧げ、素晴らしい御言葉を聞くだけで礼拝が完成するのではなく、その後すぐに聖徒たちの必要を満たす働きに没頭するとき、神が喜んで受け取られる「霊的礼拝」となるのです。

このように、ローマ書12章1~13節が示す「キリストにあって新しい生活」とは、自分自身を生けるいけにえとして捧げ、この世の風潮に逆らって心を新たにし、教会の中で互いの異なる賜物を尊重し、十字架によって隔たりの壁を取り壊し、兄弟姉妹に具体的な愛を施すディアコニアへと行き着きます。その過程において教会は成長し、世は教会を通してイエス・キリストの愛を目の当たりにします。そして、この全過程の背後には「神の救済史」が流れています。張ダビデ牧師が繰り返し強調してきたように、救済史とは神が人間を罪から救い出し、終末論的完成に導かれる全体の歴史を指し、その中心にイエス・キリストの十字架と復活、そして聖霊の働きと教会があるのです。

私たちに求められていることは単純です。「御言葉を聞き(ケリグマ)、互いに交わり(コイノニア)、奉仕と仕えによって愛を実践する(ディアコニア)」ことです。そうすることで、私たちはイエスの弟子として「新しいイスラエル」のアイデンティティを表し、神に栄光を帰することができます。ローマ書12章は、この一連のプロセスを要約した実践マニュアルと言えます。救われた者ならば、必ずこの御言葉の前で自分自身を振り返り、「私は本当に生活で礼拝を捧げているのか? 聖徒たちの必要を満たし、旅人をもてなすことに努めているのか?」と自問すべきです。張ダビデ牧師の教えは、この問いを改めて鮮明にし、私たちを具体的な実践へと駆り立てます。

したがって私たちは、個人としても、共同体としても、今日聞いた御言葉を心に刻み、すぐに行動に移すべきです。誰かが必要を訴えたなら、「私にあるものでどれだけ渡せるだろうか?」と悩む以前に、「もっと多く、もっと惜しみなく与える方法はないだろうか?」と考えるのです。それこそがイエス様が示された愛であり、ローマ書12章が語る真の礼拝なのです。そして、この礼拝を実際に捧げる人々が集まった共同体は、誰が見ても「彼らはまさにキリストの弟子なのだ」と認めざるを得ない姿となるでしょう。これこそ救われた後の生き方であり、新しいイスラエルとしての使命であり、張ダビデ牧師が絶えず訴えてきた福音の実践的結論でもあるのです。

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聖霊の時代 – 張ダビデ牧師


Ⅰ. 三位一体の神秘と助け主(パラクレトス)聖の約束

張ダビデ牧師はヨハネの福音書14章15節から26節の御言葉を通して、イエス・キリストの別れの説教の中に登場する助け主(パラクレートス)である聖霊について深く取り上げ、三位一体なる神の救いのご計画がどれほど驚くべき恵みであるかを強調してきた。本文においてイエス様は別れの説教をなさりながら、「あなたがたがわたしを愛するならば、わたしの戒めを守る」と仰せられ、続いて「わたしは父にお願いしよう。そうすれば父は別の助け主をあなたがたにお与えになり、いつまでもあなたがたと共におらせてくださるだろう」と語られた。これは、神の子イエス・キリストが去られた後も、弟子たちを決して孤児のように捨ててはおかず、聖霊を送ってくださるという約束である。張ダビデ牧師はこの点で、三位一体なる神の救いの業について説き明かしつつ、父と子と聖霊――すなわち三つのペルソナが同時に一つの本質であると信じるキリスト教の核心教理こそ真の真理であると繰り返し強調する。

イエス様は弟子たちに「心を騒がせないように」とおっしゃったが、その根拠は何か。第一に、創造主である父なる神が生きておられること、第二に、わたしたちの道であり真理であり命であられるイエス・キリストがおられること、そして第三に、主が助け主なる聖霊を送ってくださることである。このように三位一体において、父・子・聖霊のはたらきと役割は一体となっている。特にヨハネ14章では、パラクレートス(ギリシャ語パラクリートス)と呼ばれる聖霊が「真理の御霊」として紹介されている。張ダビデ牧師は、この真理の御霊がこの世に属する者には隠されているが、イエス様を愛し、その御言葉を守り信じる者には開かれている特別な恵みであると語る。世の人々は聖霊を受けることも知ることもできないが、信じる者はイエス・キリストの救いの御業を通して聖霊を体験するのである。

本文では、「その方はあなたがたと共に住み、またあなたがたのうちにおられる」とイエス様が直接語られた。聖霊は空間と時間の制約を受けられず、主が復活し昇天された後も、全世界のすべての信者と共にいてくださる。張ダビデ牧師はこれを「偉大なる聖霊の時代が開かれた」と強調する。聖霊はイエス様が成し遂げた贖いの功績の上に働きを進め、信じる者の心に入り、その人々を慰め、守り、真理に目覚めさせ、力と権能を与えてくださる。人間は罪の鎖につながれた存在であるが、イエス・キリストの代赎の御業と、そこから与えられる助け主なる聖霊によって自由にされ、新しい命の道を歩むことができるのだ。

「あなたがたをみなしごにはしておかない」という主の御言葉は、当時の弟子たちだけでなく、現代のわたしたちすべてに適用される。弟子たちは十字架の受難と死、復活を直接目撃したが、イエス様が肉体的に去られるという状況に直面し、恐れを抱いていた。しかしイエス様は彼らを「捨てておかれず」、むしろ「わたしは再び来る」と仰せになることで、復活後の聖霊降臨という新しい歴史を確証されたのである。張ダビデ牧師はこの場面で、イエス様の絶対的な確信を強調する。主は十字架と死という極限の苦しみを前にしても、「わたしが生き、あなたがたも生きることになる」と宣言された。これは、主ご自身がすでに復活の世界を確信しておられたことを示す。死は一時的なものであり、死の力が主を捕らえておくことはできないという事実を、主は宣言なさったのだ。そこには、すでに勝利の座におられる主のお姿を見ることができる。

張ダビデ牧師は三位一体の教理の重要性を重ねて説く。三位一体の神は決して単一神格論(モナキアニズム)や様態論(モダリズム)で説明できるものではなく、父・子・聖霊が互いに独立したペルソナ(位格)を持つ同等の神であるという。もしイエス・キリストや聖霊が「父なる神の被造物」であるかのように従属しているのだとすれば、十字架の上で成し遂げられた贖いの御業を真の神の業だと言うのは難しいだろう。しかし、イエス・キリストは真の神(神と同質・同本質)としてわたしたちのもとに来られ、代赎の救いを成し遂げられた。同様に聖霊も真の神として、わたしたちの救いの旅路に共におられるのだ。

「なぜ三位一体信仰が必要なのか」と問う人もいる。一人の神だけを信じれば十分ではないかという疑問である。しかしキリスト教が三位一体を信じる理由は、神を正しく知るためには、父なる神の愛を示してくださる子なるイエス様、そしてイエス様のすべての御言葉を思い起こさせ、わたしたちの人生を新たに作り変えてくださる聖霊が共に働かれることを知らねばならないからである。張ダビデ牧師は「わたしたちはイエス・キリストを通して神がどのようなお方かを知るようになった」と語る。人は有限な存在なので、無限なる神を自力で知ることはできない。しかし神は人の姿をとって来られたイエス・キリストを通して、ご自身を啓示され、イエス様の十字架の死と復活を通して、神の愛がいかに大きいかを示された。そして、そのイエス様の道を今日わたしたち一人ひとりに適用し、悟らせてくださる方が聖霊である。したがって三位一体の神は、一人の神でありながら、三つの位格としてわたしたちの救いと聖化の全過程を完成へと導かれるのである。

イエス・キリストの恵みによって、わたしたちは義と認められる。そして「聖霊の交わり」によってわたしたちは絶えず聖くされていく。三位一体の祝祷文が「主イエス・キリストの恵みと、神(父)の愛と、聖霊の交わり」と順に続くのも同じ文脈だ。イエス・キリストの恵みによって神の愛に至り、さらに聖霊の内住によっていつもその愛のうちを生きる――このように張ダビデ牧師は、「十字架の上で完成された救いが聖霊によって各人の内に適用され、その適用された救いが具体的な実を結ぶようにわたしたちを導く過程こそが聖霊の働きである」と紹介する。

旧約の時代は、父なる神の支配と契約、律法によってわたしたちの罪と限界が暴かれる時代であった。そして新約の時代にイエス・キリストが来られ、子なる神の御業がなされた。その後、イエス様が死と復活、昇天を通して贖いの道を開かれ、今や聖霊の時代が幕を開けたのである。使徒の働き2章で、五旬節の日に臨まれた聖霊の働きは、「主の名を呼ぶ者はすべて救われる」という驚くべき宣言が現実になる場面である。旧約時代のように特定の預言者にだけ聖霊が臨むのではなく、しもべであろうと女奴隷であろうと、老人であろうと若者であろうと、幼子であろうと、イエス・キリストを信じるすべての人に聖霊が臨まれる。張ダビデ牧師は、これこそが普遍的な救いを約束された神の愛であり、同時にわたしたちが聖霊の力を体験し、「真理の御霊」と共に歩むことができる真の喜びなのだと語る。

ヨハネ14章26節で主は、「助け主、すなわち父がわたしの名によってお送りになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださるだろう」と仰せられた。ここで「わたしの名によって送る」というのは、イエス様の十字架の死と復活・昇天の御業を通して聖霊が送られることを意味する。何の代価もなく聖霊が与えられるのではなく、イエス様の代赎の死が先立つことによって開かれた救いと恵みの門のうちに、聖霊が臨まれるのである。張ダビデ牧師はこれを「十字架なくして聖霊はない」と要約する。罪の問題を根本的に解決されたイエス・キリストの功績の上に聖霊の時代が立っているゆえ、わたしたちは「イエス様の御名によって」聖霊を受けるのである。

聖霊はわたしたちの生活の中で真理を照らし、イエス様がお語りになったすべてのことを思い起こさせてくださる。これはただ知識として暗記するということではなく、わたしたちの生活を力によって変える「思い起こし」と導きである。わたしたちが罪に陥ったり、人間的な欲望に飲み込まれそうになるとき、聖霊はわたしたちの内で「主の道に立ち返りなさい。それは罪だ」と気づかせてくださる。そして、その悔い改めの過程でわたしたちを守り慰め、イエス様の義をより深く知るように導いて感謝の賛美を捧げさせる。張ダビデ牧師はこれを「真の自由を味わう道」と呼ぶ。世は自由を放縦や自分勝手な行動だと誤解するが、実際には、わたしたちがイエス・キリストの贖いによる罪の赦しを受け、聖霊のうちを生きるときこそ、はじめて真の自由へと入るのだ。

ヨハネ14章は聖霊降臨日の礼拝で必ず読むべきだと言う人も多い。イエス様が「わたしが去って行っても、あなたがたが悲しむ必要はない。助け主なる聖霊が来られ、その方がいつまでもあなたがたと共におられるだろう」と仰ったからだ。信じる者にとって、これ以上の慰めはない。イエス様の時代には、復活を目撃した弟子たちがいたが、遠い未来に生まれる人々にはイエス様の物理的なご臨在を経験することは難しい。しかし、聖霊が臨まれることによって、時と場所を超えて、イエスを信じるすべての人が同じ恵みを体験できるようになる。聖霊はイエス様が約束されたとおり「もうひとりの助け主」であり、神がわたしたちにお示しになった「新しい時代」の始まりなのだ。

パラクレートス(Paraclete)として訳されるギリシャ語のパラクリートス(παράκλητος)は、本来「そばに寄り添って助ける者」「援助者」「慰める者」「弁護者」「アドバイザー」「励ます者」など、多面的な意味を持つ。英語ではComforter、Advocate、Counselorなどと訳される。張ダビデ牧師は、ラテン語におけるComfortが「共に力を与える」(com + fortis、fortisは勇気・力)という意味だと説明し、聖霊はわたしたちを慰められるだけでなく、霊的な力と大胆さを与えてくださる方なのだと力説する。信じる者が世にあって福音を証しする大胆さは、聖霊の力である。弟子たちはイエス様の復活後、マルコの屋上の間に集まって祈っていたとき聖霊に満たされ、ようやく死をも恐れず大胆に福音を伝え始めた。これは激しい迫害の中にあっても福音が広がり続けた根源的な力であった。

聖霊はイエス様が語られたすべての真理の御言葉をわたしたちに思い起こさせ、また教えてくださり、イエス様が歩まれた道を信仰をもって従うよう導いてくださる。張ダビデ牧師は「この聖霊の内住こそ、わたしたちが時空の制約を超え、いつどこにいても主と出会うことを可能にしてくださる神の方法だ」と語る。わたしたち自身が神殿となり、そこに聖霊が住まわれるとき、わたしたちの信仰は単なる知識や制度的枠組みにとどまらなくなる。人生のあらゆる瞬間に聖霊の導きを求め、罪から遠ざかり、真理のうちにとどまろうと努めるようになる。これは内面の動機そのものが変わることであり、もはや律法の外的な強制や宗教的義務感ではなく、聖霊のうちで自発的に変えられていく姿である。

このようにヨハネ14章には、三位一体なる神の深い神秘が凝縮されている。父が計画され、御子イエスが成就された救いの御業を、聖霊が信じる者一人ひとりに実際に適用し、実を結ばせてくださる。この教理を知らなければ、教会は単なる人間が作った宗教組織のように見えるかもしれない。しかし、三位一体のご計画を悟れば、教会がまさに「聖霊が住まわれる共同体」であるとわかる。またわたしたち一人ひとりも「聖霊の宮(神殿)」となり、天の栄光をこの地上で味わいながら生きることができるという希望に満たされるのである。

張ダビデ牧師は「聖霊は教会を建て上げられる方であり、同時にわたしたちの魂を世話し、変えてくださる方だ」と言う。助け主である聖霊が臨まれるならば、わたしたちはイエス・キリストの契約にすがり、終わりの時まで揺らぐことなく信仰を守ることができる。たとえつまずいたり罪を犯した瞬間でも、聖霊の内住によって悔い改めと聖なる道への回復が可能になる。とりわけ、この時代の数多くの葛藤や傷が、聖霊の癒しと慰めによって解消されうると見るのが福音的な視点である。聖霊は心がかたくなになって互いを憎み合う人々に、和解と愛の道を開いてくださり、罪の重荷に押しつぶされた人々に自由と喜びを与えてくださる。

イエス様が去られた代わりに、永遠にわたしたちのうちに住まわれる助け主なる聖霊が来てくださるという事実は、決して小さな慰めではない。地球上のどこにいようと、どの時代に生きようと、イエス・キリストを主と告白し、その御言葉を慕い求める者であれば、誰でも等しく聖霊の賜物を受けることができる。これは神の子どもたちの共同体の特徴であり、張ダビデ牧師が常々強調してきた「教会の普遍性」でもある。教会が持つこの普遍的特性は、最終的に「すべての人に聖霊が注がれる」という事実によって実現される。教会の中では地位や年齢、性別、社会的身分は差別の根拠にならない。聖霊はそれぞれの人に異なる賜物をお与えになるが、すべての賜物は一つのからだを形成してキリストを証しするために導かれる。こうしてわたしたちは、多様な賜物を持つ肢体が互いに協力し仕え合う共同体となる。

また聖霊は「真理の御霊」であるがゆえに、偽りや闇、憎しみや暴力が根を張りにくい。世の中では利益や権力、欲望の対立によって数多くの争いが起こるが、聖霊の共同体の中では互いに仕え合い、許し合いながら成長していく。これこそイエス・キリストの教会が目指すべきビジョンである。教会が完全ではないにしても、聖霊に依り頼みながら少しずつ真理と愛を実践していくとき、世は教会を通して真の光を見るようになる。張ダビデ牧師は、この過程を「神の国が広がっていく道」と説明する。教会は世から区別された聖なる性質を持ちつつも、同時に世のただ中で仕えを実践し、聖霊の力によってあらゆる言語や文化的障壁を超えて福音を伝えるのである。

こうして張ダビデ牧師は、ヨハネ14章に記された三位一体的な救いの約束、そして助け主なる聖霊の約束を通して、新しい聖霊の時代が開かれたことを何度も強調してきた。父と子と聖霊が一つの神でありながら、それぞれの位格として救いの歴史に参与されるという事実を信じることがキリスト教信仰の精髄なのである。どのような勢力がキリスト教の教理を揺るがそうとも、聖書の土台の上に打ち立てられた三位一体信仰は決して揺るがない。また、この三位一体信仰を体得し体験する人々は、胸の奥底から沸き起こる熱い聖霊の力によって世に向かって大胆に出ていくことができる。

神の子どもとなる道は、ただイエス・キリストの十字架の代赎によるものであり、その事実を悟り主を受け入れる者には聖霊が臨んで、罪の習慣から抜け出すよう助けてくださる。悔い改めて生まれ変わった心は聖霊のうちに新しい衣を着せられ、次第にイエス様の御品性に似ていく。その結果、教会の共同体の中で互いに愛し仕え合い、世に出てもキリストのかぐわしい香りを放つようになる。これこそ福音の力であり、それを可能にする方が助け主なる聖霊である。ヨハネ14章以降、教会は迫害を受けたり倒れそうになったりもしたが、聖霊が決して信じる者を独りにしなかったゆえ、中世・近代・現代を経て今日まで教会が存続してきた。今日もなお聖霊の御業は有効であり、張ダビデ牧師はこのことを確信する信仰をもって「三位一体なる神を賛美しよう」と力説している。


Ⅱ. の時代の生き方と救いの完成

張ダビデ牧師は三位一体信仰の土台の上で、聖霊の時代を生きる信者の生き方がどのようであるべきかを具体的に教えてきた。聖霊を受けるというのは、イエス・キリストの救いを“現在的”に体験し、罪の赦しによる自由と共に、聖なる行いへと進む力を受け取ることである。救いとは過去の一度きりの出来事で終わるものではなく、現在と未来を包含しつつ完成に至るプロセスである。信者はイエス様を信じた瞬間に“義人”と見なされるが、同時に古い習慣や罪の性質を洗い清めていく聖化の過程に入る。この聖化は、人間の意志や努力だけでは決して成し遂げられず、聖霊の助けと導きが不可欠である。

張ダビデ牧師はローマ8章を代表的な「聖霊の章」と呼ぶ。ローマ書1章から7章まででパウロは、人間がいかに罪の中にあり、イエス・キリストの十字架がその罪をいかに贖ったか、またその信仰によっていかに義と認められるかを述べる。そして8章に至って聖霊論を展開し、聖霊のうちにある信者の自由を宣言する。パウロは「今やキリスト・イエスにある者に決して罪に定められることはない」と高らかに宣言し、「いのちの御霊の法が、罪と死の法から解放した」と語る。このように聖霊のうちでわたしたちの救いは単なる観念的な宣言にとどまらず、実際の生活において力を現す。

ガラテヤ5章にある聖霊の実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)は、これをよく表している。救われたと告白しながらも、実際の生活がまったく変わらないのであれば、まだ真の聖霊の働きを受け入れていないも同然である。聖霊はわたしたちの心の畑を耕し、偽りや貪欲、邪な欲望、憎しみなどを追い払い、イエス様に似る者へと導いてくださる。だからこそ張ダビデ牧師は、聖霊降臨日や教会の礼拝のたびに「聖霊の満たしを切に求めよ」と勧める。いくら素晴らしい説教や教育があっても、本人が聖霊の満たしを切望しなければ、その霊的変化が現実になるのは難しいからである。

張ダビデ牧師は使徒の働きを「聖霊の行伝」と呼ぶ。その題名は「使徒の働き(Acts of the Apostles)」だが、実際に読んでみれば、使徒たち個々の力量というよりも、聖霊が彼らをどう導かれ、各都市や民族でどのように福音を広げられたかが核心的な流れとして描かれている。五旬節(ペンテコステ)の聖霊降臨の後、ペテロが大胆に説教した際、一日で三千人が悔い改めてイエス様を受け入れた。さらにはエルサレムにとどまることなく、ユダヤ、サマリヤ、地の果てまで福音が広がり、全世界が福音の力の前に変えられ始める。このような驚くべき出来事は、もともと弟子たちが持っていた能力によるものではなかった。彼らはイエス様が捕らえられたとき、恐れて逃げ散った弱い者たちだったのである。しかし聖霊が臨んだとき、彼らは死さえ恐れず大胆に福音を伝えるようになった。

このように聖霊の権能は人を変え、教会を建て上げ、世を揺さぶって神の国を拡張させる。教会はこの聖霊の働きに参与する共同体であり、クリスチャンの生き方は聖霊と共に歩む道のりである。ただし、この過程で迫害や試練が訪れるのは自然なことである。ヨハネ14章に続く15章、16章でも、イエス様は「世があなたがたを憎む」と警告しておられる。その憎しみの本質は、世が光よりも闇を好むからである(ヨハネ3:19)。光が照らす罪を素直に悔い改め、告白するよりは、悔い改めを拒んで自らの正しさを主張したいと思う心が、世に根強くあるのだ。しかし信じる者は聖霊のうちにおいて絶えず罪を洗い清められ、御言葉を守り、キリストの道を歩むのである。

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聖霊の時代は、わたしたちが「孤児のように捨て置かれた」時代ではなく、助け主である聖霊がわたしたちを慰め、弁護し、教えてくださる時代である。張ダビデ牧師はこれをいくつかの観点で解き明かしている。第一に、聖霊はわたしたちの「慰め主」(Comforter)として、傷ついた心をいやしてくださる。第二に、聖霊は「弁護者」(Advocate)として、わたしたちの弱さや罪をサタンが告発しようとするとき、イエス・キリストの功績に立って、わたしたちを罪に定まらないよう守ってくださる。第三に、聖霊は「助け手」(Helper)として、わたしたちが新しい生活を歩むための実際的な力と知恵を与えてくださる。第四に、聖霊は「助言者」(Counselor)として、わたしたちが無知や混乱に陥るとき、道を示し、イエス様の御言葉を思い起こさせてくださる。これらすべての働きが「わたしたちのうちに住まわれる」聖霊によって起こるというのがポイントである。

さらに張ダビデ牧師は、聖霊降臨以降は女性であれ男性であれ、奴隷であれ自由人であれ、誰でも聖霊を受けるのだと説く。旧約では預言者や王のように選ばれた少数にしか聖霊が下らなかったが、今や「すべての肉にわたしの霊を注ぐ」とのヨエル預言者の予言(ヨエル2:28-29)がそのまま実現したのである。そして使徒2章でペテロがこれを引用し、五旬節に一度に爆発的に注がれた聖霊の出来事を解釈した。これは社会的身分や文化的背景の壁を打ち破る出来事であり、教会が歩むべき方向を指し示すものであった。教会は人種や言語、地位や性別を超えて一つに結ばれた新しい共同体となった。現代においても、教会にはさまざまな階層やバックグラウンドを持つ人々が共存するが、彼らが一つの心で礼拝をささげ、互いに仕えることができるのは、聖霊が一つにしてくださる働きがあるからだ。

聖霊が臨まれるとき、おのおのに多様な賜物が与えられる。ある者は知恵の言葉や知識の言葉を与えられ、それを通して教え導き、ある者は信仰や病気を癒す力、預言、霊を見分ける力、異言やその解き明かしなどを与えられる(Ⅰコリント12章)。しかし大切なのは「すべての賜物が同じ聖霊から与えられる」ということ。そして、その賜物が与えられる目的は教会を建て上げ、隣人を仕え、究極的には神に栄光をお返しするためである。張ダビデ牧師は、ある特定の賜物が他の賜物よりも優れているわけではなく、教会の中では多様な賜物が調和を成す必要があると強調する。中には「異言がなければ救われていない」と極端な主張をする教会もあるが、これは聖書の語るバランスからは外れている。異言であれ預言であれ、すべての賜物は聖霊が「その御心のままに各人に分け与えてくださる」ものである。わたしたちに求められるのは、賜物を熱心に求めながらも、それによって高慢になったり他者を軽んじたりせず、愛をもって互いに仕え合う姿勢である。

聖霊は教会のために賜物をお与えになるだけでなく、一人ひとりの信仰生活の聖性をも高めてくださる。人は罪を犯すたびに、聖なる衣を汚すようなもので、だからこそ悔い改めと清めが必要となる。古い罪の性質を完全に追い出すことは容易ではない。パウロもローマ7章で「したいと願う善は行わず、したくない悪を行ってしまう」と嘆いている。しかしローマ8章で「今やキリスト・イエスにある者に決して罪に定められることはない」と言い、「いのちの御霊の法が罪と死の法からあなたを解放した」と宣言する。これは聖霊のうちで勝利が可能であることを示す。どれほど深い中毒や暗い習慣にとらわれていても、聖霊に立ち返るならば、主がお与えになる力によって打ち勝つことができるのだ。張ダビデ牧師は聖霊を「内的自由と解放の御霊」と呼ぶ。人間が自力では断ち切れない罪の鎖を断ち切り、新しい被造物として生きる道を開いてくださる力が聖霊にあるからだ。

聖霊がなさるもう一つの重要な働きは、「わたしたちを絶えず祈りへと導いてくださる」点である。パウロは「わたしたちはどう祈ればよいかわからないが、御霊が弱いわたしたちを助け、言い表せないうめきによってご自身がとりなしてくださる」(ローマ8:26-27)と語る。多くの信徒は長く祈ることを難しく感じる。考えが散漫になり、集中力が途切れて、数分で祈りをあきらめてしまいがちだ。しかし異言(霊の言葉)を受けると、自分の知性では妨げられない領域で聖霊が祈るよう導いてくださるため、長時間祈ることができる。異言は自分を高める賜物であり、預言は他者を高める賜物だ(Ⅰコリント14章)。異言がないから救われていないわけではないが、聖霊がお許しになるならば、異言であれ預言であれ、何であっても切に願い求める姿勢が大切だと張ダビデ牧師は助言する。

このように聖霊は教会のうちで豊かな実りと賜物をもたらしてくださる方である。教会史を振り返ってみても、偉大なリバイバルの時期にはいつも聖霊の強力な御業があった。五旬節の聖霊降臨から始まった初代教会の急成長、中世末の宗教改革、近代の大覚醒運動、現代の世界宣教の拡大――これらはすべて聖霊が動かされた結果である。したがって教会が衰退し、世の光と塩の役割を果たせなくなるとき、それは聖霊の火が消えかかってしまった結果だと言える。張ダビデ牧師は、教会が絶えず聖霊にあって新生し続けるべきだと教える。「聖霊なき教会は機械的な宗教活動を繰り返すだけで、世とまったく違った姿を示すことができない」というのだ。しかし聖霊に満たされた教会は、制度や形式にとどまらず、神のいのちがあふれ、人々の心をとらえて真の変化へと導く。

三位一体信仰とは、父なる神が独り子を世に送り、御子イエス・キリストがその派遣を受けて死に至るまで従順に従うことで救いを完成され、そして今や聖霊がその救いを各人に適用し、教会の共同体を通して広げていかれるという信仰である。ゆえに救いの完成はイエス様の再臨の時に成就するが、その再臨の日まで聖霊が常にわたしたちを導き、聖く作り上げてくださる。張ダビデ牧師は「聖霊の目的はイエス様に似た弟子を育て上げることであり、同時にイエス様の再臨を待ち望む花嫁として教会を整えることだ」と主張する。だからこそ、個人の敬虔さと共同体の成長は車の両輪のように並行して進まなければならない。聖霊は個人の聖化を助けるだけでなく、教会の交わりの中で互いを建て合い、罪を告白し合い、とりなしの祈りを通して聖さがいっそう確固たるものになるよう導いてくださる。

聖書は新天新地において神の民が永遠に主を賛美することを預言している(黙示録21章)。その日まで聖霊はあらゆる時代の聖徒たちを守られる。張ダビデ牧師はこれを「最後の審判の日まで聖霊がわたしたちを弁護してくださる」と表現する。イエス様の血潮によって罪の赦しを受け、いのちの書に名を記されたわたしたちを、聖霊はそのことをわたしたちの良心に絶えず証しし、確信させてくださる。世がいかに混乱していようと、たとえ教会の中に分裂や葛藤があろうと、聖霊が去られない限り、真のキリストの教会は滅びない。聖霊は痛みをもって嘆き、悔い改めを促し、変革の突破口をもたらしてくださるのである。

聖霊の時代の生き方とは、日々三位一体なる神の救いの歴史に参与することである。父の愛、御子の恵み、聖霊の交わりのうちで、わたしたちは神の子どもとなった。イエス・キリストの十字架によって罪の赦しと義と認められる恵みを受け、今や聖霊のうちにおいて聖さに至る道を歩んでいる。完全ではないにしても、聖霊の助けを祈り求めながら、小さな一歩を踏み出すたびに、内なる古い自我は弱まり、イエス様の御姿が現れてくる。張ダビデ牧師はこの過程を「神の国がわたしの内に、教会の内に、そして世の内に広がっていく過程」と要約する。わたしたちが世と区別された存在となるほどに、世もまた福音の前に心を開いていく道筋をたどるというのである。

ヨハネ14章に示された助け主なる聖霊の約束と三位一体の救い論は、キリスト教信仰の精髄であり、初代教会から今に至るまで教会はこれを通して歩みを続けてきた。張ダビデ牧師は「この信仰の遺産を守りながら、さらに聖霊の臨在を力強く体験する教会でなければならない」と訴える。個人レベルでは、聖霊の内住を日々慕い求め、御言葉と祈りによって聖霊と交わり、罪を退けつつイエス様をますます知る必要がある。教会共同体の次元では、聖霊が各肢体に分け与えられた賜物を合わせて一つの体として動き、互いの弱さを補い合いながら、世に向かって福音の良い影響を及ぼすことが重要である。

これらすべての働きの中心には、「父の愛を示されたイエス・キリスト、そしてそのイエス様の御言葉と愛をわたしたちの内に刻み、実を結ばせる聖霊」がいる。その背後には父なる神の永遠のご計画と摂理が広がっている。三位一体なる神のご計画のうちで、わたしたちは決して独りにされたり、道を見失ったりしない。助け主である聖霊は、今もわたしたちを導き、力を与え、悔い改めに導き、祈るように促してくださる。そのことを信じてしっかりとつかむ者にとって、どのような患難や迫害ももはや恐れるに足りない。死の向こうに復活があるゆえ、イエス様の勝利がわたしたちの勝利となるからである。その勝利の道に入った者は、聖霊のうちに日々新たにされ、愛と喜びと平安の実を豊かに結ぶようになる。

張ダビデ牧師は、ヨハネ14章に発せられた聖霊の約束がヨエル書2章、使徒2章、ローマ8章、ガラテヤ5章、Ⅰコリント12~14章など、新約聖書の至るところで具体化されていることを示し、これこそ新約の教会の本質的な力だと解釈する。そして今なお同じ聖霊がわたしたちに与えられているのだから、信仰によってそれをつかむだけでよいのだと強調する。このメッセージは、教会という共同体が単なる宗教団体ではなく、三位一体なる神の愛と力、そして聖霊の導きの中に生きる「いのちの共同体」であることを明らかにする。

わたしたちは聖霊の時代にあって、助け主なる聖霊の力を体験しながら、三位一体なる神をますます深く礼拝し交わるよう招かれている。イエス様の昇天の後、わたしたちは孤児のように残されたのではない。助け主なる聖霊があらゆる真理を教え、思い起こさせ、父の御心をイエス様の救いを通して味わわせてくださる。恵みの時代に生きるわたしたちは、旧約時代のごく一部の預言者のようにまれに聖霊を受けるのではなく、「主の名を呼ぶ者は誰でも」聖霊の賜物を受け取ることができる。そして聖霊のうちで互いに異なる賜物を分かち合い、イエス様を証しし、世に出てその愛と真理を伝える特権にあずかることができる。まさにこれこそ張ダビデ牧師が一貫して力説してきた「聖霊の時代が開かれた」という福音の核心である。わたしたちは三位一体であられる父と子と聖霊――すなわち唯一なる神を礼拝し、その方のうちに永遠にとどまることになるのだ。

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