聖霊の時代 – 張ダビデ牧師


Ⅰ. 三位一体の神秘と助け主(パラクレトス)聖の約束

張ダビデ牧師はヨハネの福音書14章15節から26節の御言葉を通して、イエス・キリストの別れの説教の中に登場する助け主(パラクレートス)である聖霊について深く取り上げ、三位一体なる神の救いのご計画がどれほど驚くべき恵みであるかを強調してきた。本文においてイエス様は別れの説教をなさりながら、「あなたがたがわたしを愛するならば、わたしの戒めを守る」と仰せられ、続いて「わたしは父にお願いしよう。そうすれば父は別の助け主をあなたがたにお与えになり、いつまでもあなたがたと共におらせてくださるだろう」と語られた。これは、神の子イエス・キリストが去られた後も、弟子たちを決して孤児のように捨ててはおかず、聖霊を送ってくださるという約束である。張ダビデ牧師はこの点で、三位一体なる神の救いの業について説き明かしつつ、父と子と聖霊――すなわち三つのペルソナが同時に一つの本質であると信じるキリスト教の核心教理こそ真の真理であると繰り返し強調する。

イエス様は弟子たちに「心を騒がせないように」とおっしゃったが、その根拠は何か。第一に、創造主である父なる神が生きておられること、第二に、わたしたちの道であり真理であり命であられるイエス・キリストがおられること、そして第三に、主が助け主なる聖霊を送ってくださることである。このように三位一体において、父・子・聖霊のはたらきと役割は一体となっている。特にヨハネ14章では、パラクレートス(ギリシャ語パラクリートス)と呼ばれる聖霊が「真理の御霊」として紹介されている。張ダビデ牧師は、この真理の御霊がこの世に属する者には隠されているが、イエス様を愛し、その御言葉を守り信じる者には開かれている特別な恵みであると語る。世の人々は聖霊を受けることも知ることもできないが、信じる者はイエス・キリストの救いの御業を通して聖霊を体験するのである。

本文では、「その方はあなたがたと共に住み、またあなたがたのうちにおられる」とイエス様が直接語られた。聖霊は空間と時間の制約を受けられず、主が復活し昇天された後も、全世界のすべての信者と共にいてくださる。張ダビデ牧師はこれを「偉大なる聖霊の時代が開かれた」と強調する。聖霊はイエス様が成し遂げた贖いの功績の上に働きを進め、信じる者の心に入り、その人々を慰め、守り、真理に目覚めさせ、力と権能を与えてくださる。人間は罪の鎖につながれた存在であるが、イエス・キリストの代赎の御業と、そこから与えられる助け主なる聖霊によって自由にされ、新しい命の道を歩むことができるのだ。

「あなたがたをみなしごにはしておかない」という主の御言葉は、当時の弟子たちだけでなく、現代のわたしたちすべてに適用される。弟子たちは十字架の受難と死、復活を直接目撃したが、イエス様が肉体的に去られるという状況に直面し、恐れを抱いていた。しかしイエス様は彼らを「捨てておかれず」、むしろ「わたしは再び来る」と仰せになることで、復活後の聖霊降臨という新しい歴史を確証されたのである。張ダビデ牧師はこの場面で、イエス様の絶対的な確信を強調する。主は十字架と死という極限の苦しみを前にしても、「わたしが生き、あなたがたも生きることになる」と宣言された。これは、主ご自身がすでに復活の世界を確信しておられたことを示す。死は一時的なものであり、死の力が主を捕らえておくことはできないという事実を、主は宣言なさったのだ。そこには、すでに勝利の座におられる主のお姿を見ることができる。

張ダビデ牧師は三位一体の教理の重要性を重ねて説く。三位一体の神は決して単一神格論(モナキアニズム)や様態論(モダリズム)で説明できるものではなく、父・子・聖霊が互いに独立したペルソナ(位格)を持つ同等の神であるという。もしイエス・キリストや聖霊が「父なる神の被造物」であるかのように従属しているのだとすれば、十字架の上で成し遂げられた贖いの御業を真の神の業だと言うのは難しいだろう。しかし、イエス・キリストは真の神(神と同質・同本質)としてわたしたちのもとに来られ、代赎の救いを成し遂げられた。同様に聖霊も真の神として、わたしたちの救いの旅路に共におられるのだ。

「なぜ三位一体信仰が必要なのか」と問う人もいる。一人の神だけを信じれば十分ではないかという疑問である。しかしキリスト教が三位一体を信じる理由は、神を正しく知るためには、父なる神の愛を示してくださる子なるイエス様、そしてイエス様のすべての御言葉を思い起こさせ、わたしたちの人生を新たに作り変えてくださる聖霊が共に働かれることを知らねばならないからである。張ダビデ牧師は「わたしたちはイエス・キリストを通して神がどのようなお方かを知るようになった」と語る。人は有限な存在なので、無限なる神を自力で知ることはできない。しかし神は人の姿をとって来られたイエス・キリストを通して、ご自身を啓示され、イエス様の十字架の死と復活を通して、神の愛がいかに大きいかを示された。そして、そのイエス様の道を今日わたしたち一人ひとりに適用し、悟らせてくださる方が聖霊である。したがって三位一体の神は、一人の神でありながら、三つの位格としてわたしたちの救いと聖化の全過程を完成へと導かれるのである。

イエス・キリストの恵みによって、わたしたちは義と認められる。そして「聖霊の交わり」によってわたしたちは絶えず聖くされていく。三位一体の祝祷文が「主イエス・キリストの恵みと、神(父)の愛と、聖霊の交わり」と順に続くのも同じ文脈だ。イエス・キリストの恵みによって神の愛に至り、さらに聖霊の内住によっていつもその愛のうちを生きる――このように張ダビデ牧師は、「十字架の上で完成された救いが聖霊によって各人の内に適用され、その適用された救いが具体的な実を結ぶようにわたしたちを導く過程こそが聖霊の働きである」と紹介する。

旧約の時代は、父なる神の支配と契約、律法によってわたしたちの罪と限界が暴かれる時代であった。そして新約の時代にイエス・キリストが来られ、子なる神の御業がなされた。その後、イエス様が死と復活、昇天を通して贖いの道を開かれ、今や聖霊の時代が幕を開けたのである。使徒の働き2章で、五旬節の日に臨まれた聖霊の働きは、「主の名を呼ぶ者はすべて救われる」という驚くべき宣言が現実になる場面である。旧約時代のように特定の預言者にだけ聖霊が臨むのではなく、しもべであろうと女奴隷であろうと、老人であろうと若者であろうと、幼子であろうと、イエス・キリストを信じるすべての人に聖霊が臨まれる。張ダビデ牧師は、これこそが普遍的な救いを約束された神の愛であり、同時にわたしたちが聖霊の力を体験し、「真理の御霊」と共に歩むことができる真の喜びなのだと語る。

ヨハネ14章26節で主は、「助け主、すなわち父がわたしの名によってお送りになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださるだろう」と仰せられた。ここで「わたしの名によって送る」というのは、イエス様の十字架の死と復活・昇天の御業を通して聖霊が送られることを意味する。何の代価もなく聖霊が与えられるのではなく、イエス様の代赎の死が先立つことによって開かれた救いと恵みの門のうちに、聖霊が臨まれるのである。張ダビデ牧師はこれを「十字架なくして聖霊はない」と要約する。罪の問題を根本的に解決されたイエス・キリストの功績の上に聖霊の時代が立っているゆえ、わたしたちは「イエス様の御名によって」聖霊を受けるのである。

聖霊はわたしたちの生活の中で真理を照らし、イエス様がお語りになったすべてのことを思い起こさせてくださる。これはただ知識として暗記するということではなく、わたしたちの生活を力によって変える「思い起こし」と導きである。わたしたちが罪に陥ったり、人間的な欲望に飲み込まれそうになるとき、聖霊はわたしたちの内で「主の道に立ち返りなさい。それは罪だ」と気づかせてくださる。そして、その悔い改めの過程でわたしたちを守り慰め、イエス様の義をより深く知るように導いて感謝の賛美を捧げさせる。張ダビデ牧師はこれを「真の自由を味わう道」と呼ぶ。世は自由を放縦や自分勝手な行動だと誤解するが、実際には、わたしたちがイエス・キリストの贖いによる罪の赦しを受け、聖霊のうちを生きるときこそ、はじめて真の自由へと入るのだ。

ヨハネ14章は聖霊降臨日の礼拝で必ず読むべきだと言う人も多い。イエス様が「わたしが去って行っても、あなたがたが悲しむ必要はない。助け主なる聖霊が来られ、その方がいつまでもあなたがたと共におられるだろう」と仰ったからだ。信じる者にとって、これ以上の慰めはない。イエス様の時代には、復活を目撃した弟子たちがいたが、遠い未来に生まれる人々にはイエス様の物理的なご臨在を経験することは難しい。しかし、聖霊が臨まれることによって、時と場所を超えて、イエスを信じるすべての人が同じ恵みを体験できるようになる。聖霊はイエス様が約束されたとおり「もうひとりの助け主」であり、神がわたしたちにお示しになった「新しい時代」の始まりなのだ。

パラクレートス(Paraclete)として訳されるギリシャ語のパラクリートス(παράκλητος)は、本来「そばに寄り添って助ける者」「援助者」「慰める者」「弁護者」「アドバイザー」「励ます者」など、多面的な意味を持つ。英語ではComforter、Advocate、Counselorなどと訳される。張ダビデ牧師は、ラテン語におけるComfortが「共に力を与える」(com + fortis、fortisは勇気・力)という意味だと説明し、聖霊はわたしたちを慰められるだけでなく、霊的な力と大胆さを与えてくださる方なのだと力説する。信じる者が世にあって福音を証しする大胆さは、聖霊の力である。弟子たちはイエス様の復活後、マルコの屋上の間に集まって祈っていたとき聖霊に満たされ、ようやく死をも恐れず大胆に福音を伝え始めた。これは激しい迫害の中にあっても福音が広がり続けた根源的な力であった。

聖霊はイエス様が語られたすべての真理の御言葉をわたしたちに思い起こさせ、また教えてくださり、イエス様が歩まれた道を信仰をもって従うよう導いてくださる。張ダビデ牧師は「この聖霊の内住こそ、わたしたちが時空の制約を超え、いつどこにいても主と出会うことを可能にしてくださる神の方法だ」と語る。わたしたち自身が神殿となり、そこに聖霊が住まわれるとき、わたしたちの信仰は単なる知識や制度的枠組みにとどまらなくなる。人生のあらゆる瞬間に聖霊の導きを求め、罪から遠ざかり、真理のうちにとどまろうと努めるようになる。これは内面の動機そのものが変わることであり、もはや律法の外的な強制や宗教的義務感ではなく、聖霊のうちで自発的に変えられていく姿である。

このようにヨハネ14章には、三位一体なる神の深い神秘が凝縮されている。父が計画され、御子イエスが成就された救いの御業を、聖霊が信じる者一人ひとりに実際に適用し、実を結ばせてくださる。この教理を知らなければ、教会は単なる人間が作った宗教組織のように見えるかもしれない。しかし、三位一体のご計画を悟れば、教会がまさに「聖霊が住まわれる共同体」であるとわかる。またわたしたち一人ひとりも「聖霊の宮(神殿)」となり、天の栄光をこの地上で味わいながら生きることができるという希望に満たされるのである。

張ダビデ牧師は「聖霊は教会を建て上げられる方であり、同時にわたしたちの魂を世話し、変えてくださる方だ」と言う。助け主である聖霊が臨まれるならば、わたしたちはイエス・キリストの契約にすがり、終わりの時まで揺らぐことなく信仰を守ることができる。たとえつまずいたり罪を犯した瞬間でも、聖霊の内住によって悔い改めと聖なる道への回復が可能になる。とりわけ、この時代の数多くの葛藤や傷が、聖霊の癒しと慰めによって解消されうると見るのが福音的な視点である。聖霊は心がかたくなになって互いを憎み合う人々に、和解と愛の道を開いてくださり、罪の重荷に押しつぶされた人々に自由と喜びを与えてくださる。

イエス様が去られた代わりに、永遠にわたしたちのうちに住まわれる助け主なる聖霊が来てくださるという事実は、決して小さな慰めではない。地球上のどこにいようと、どの時代に生きようと、イエス・キリストを主と告白し、その御言葉を慕い求める者であれば、誰でも等しく聖霊の賜物を受けることができる。これは神の子どもたちの共同体の特徴であり、張ダビデ牧師が常々強調してきた「教会の普遍性」でもある。教会が持つこの普遍的特性は、最終的に「すべての人に聖霊が注がれる」という事実によって実現される。教会の中では地位や年齢、性別、社会的身分は差別の根拠にならない。聖霊はそれぞれの人に異なる賜物をお与えになるが、すべての賜物は一つのからだを形成してキリストを証しするために導かれる。こうしてわたしたちは、多様な賜物を持つ肢体が互いに協力し仕え合う共同体となる。

また聖霊は「真理の御霊」であるがゆえに、偽りや闇、憎しみや暴力が根を張りにくい。世の中では利益や権力、欲望の対立によって数多くの争いが起こるが、聖霊の共同体の中では互いに仕え合い、許し合いながら成長していく。これこそイエス・キリストの教会が目指すべきビジョンである。教会が完全ではないにしても、聖霊に依り頼みながら少しずつ真理と愛を実践していくとき、世は教会を通して真の光を見るようになる。張ダビデ牧師は、この過程を「神の国が広がっていく道」と説明する。教会は世から区別された聖なる性質を持ちつつも、同時に世のただ中で仕えを実践し、聖霊の力によってあらゆる言語や文化的障壁を超えて福音を伝えるのである。

こうして張ダビデ牧師は、ヨハネ14章に記された三位一体的な救いの約束、そして助け主なる聖霊の約束を通して、新しい聖霊の時代が開かれたことを何度も強調してきた。父と子と聖霊が一つの神でありながら、それぞれの位格として救いの歴史に参与されるという事実を信じることがキリスト教信仰の精髄なのである。どのような勢力がキリスト教の教理を揺るがそうとも、聖書の土台の上に打ち立てられた三位一体信仰は決して揺るがない。また、この三位一体信仰を体得し体験する人々は、胸の奥底から沸き起こる熱い聖霊の力によって世に向かって大胆に出ていくことができる。

神の子どもとなる道は、ただイエス・キリストの十字架の代赎によるものであり、その事実を悟り主を受け入れる者には聖霊が臨んで、罪の習慣から抜け出すよう助けてくださる。悔い改めて生まれ変わった心は聖霊のうちに新しい衣を着せられ、次第にイエス様の御品性に似ていく。その結果、教会の共同体の中で互いに愛し仕え合い、世に出てもキリストのかぐわしい香りを放つようになる。これこそ福音の力であり、それを可能にする方が助け主なる聖霊である。ヨハネ14章以降、教会は迫害を受けたり倒れそうになったりもしたが、聖霊が決して信じる者を独りにしなかったゆえ、中世・近代・現代を経て今日まで教会が存続してきた。今日もなお聖霊の御業は有効であり、張ダビデ牧師はこのことを確信する信仰をもって「三位一体なる神を賛美しよう」と力説している。


Ⅱ. の時代の生き方と救いの完成

張ダビデ牧師は三位一体信仰の土台の上で、聖霊の時代を生きる信者の生き方がどのようであるべきかを具体的に教えてきた。聖霊を受けるというのは、イエス・キリストの救いを“現在的”に体験し、罪の赦しによる自由と共に、聖なる行いへと進む力を受け取ることである。救いとは過去の一度きりの出来事で終わるものではなく、現在と未来を包含しつつ完成に至るプロセスである。信者はイエス様を信じた瞬間に“義人”と見なされるが、同時に古い習慣や罪の性質を洗い清めていく聖化の過程に入る。この聖化は、人間の意志や努力だけでは決して成し遂げられず、聖霊の助けと導きが不可欠である。

張ダビデ牧師はローマ8章を代表的な「聖霊の章」と呼ぶ。ローマ書1章から7章まででパウロは、人間がいかに罪の中にあり、イエス・キリストの十字架がその罪をいかに贖ったか、またその信仰によっていかに義と認められるかを述べる。そして8章に至って聖霊論を展開し、聖霊のうちにある信者の自由を宣言する。パウロは「今やキリスト・イエスにある者に決して罪に定められることはない」と高らかに宣言し、「いのちの御霊の法が、罪と死の法から解放した」と語る。このように聖霊のうちでわたしたちの救いは単なる観念的な宣言にとどまらず、実際の生活において力を現す。

ガラテヤ5章にある聖霊の実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)は、これをよく表している。救われたと告白しながらも、実際の生活がまったく変わらないのであれば、まだ真の聖霊の働きを受け入れていないも同然である。聖霊はわたしたちの心の畑を耕し、偽りや貪欲、邪な欲望、憎しみなどを追い払い、イエス様に似る者へと導いてくださる。だからこそ張ダビデ牧師は、聖霊降臨日や教会の礼拝のたびに「聖霊の満たしを切に求めよ」と勧める。いくら素晴らしい説教や教育があっても、本人が聖霊の満たしを切望しなければ、その霊的変化が現実になるのは難しいからである。

張ダビデ牧師は使徒の働きを「聖霊の行伝」と呼ぶ。その題名は「使徒の働き(Acts of the Apostles)」だが、実際に読んでみれば、使徒たち個々の力量というよりも、聖霊が彼らをどう導かれ、各都市や民族でどのように福音を広げられたかが核心的な流れとして描かれている。五旬節(ペンテコステ)の聖霊降臨の後、ペテロが大胆に説教した際、一日で三千人が悔い改めてイエス様を受け入れた。さらにはエルサレムにとどまることなく、ユダヤ、サマリヤ、地の果てまで福音が広がり、全世界が福音の力の前に変えられ始める。このような驚くべき出来事は、もともと弟子たちが持っていた能力によるものではなかった。彼らはイエス様が捕らえられたとき、恐れて逃げ散った弱い者たちだったのである。しかし聖霊が臨んだとき、彼らは死さえ恐れず大胆に福音を伝えるようになった。

このように聖霊の権能は人を変え、教会を建て上げ、世を揺さぶって神の国を拡張させる。教会はこの聖霊の働きに参与する共同体であり、クリスチャンの生き方は聖霊と共に歩む道のりである。ただし、この過程で迫害や試練が訪れるのは自然なことである。ヨハネ14章に続く15章、16章でも、イエス様は「世があなたがたを憎む」と警告しておられる。その憎しみの本質は、世が光よりも闇を好むからである(ヨハネ3:19)。光が照らす罪を素直に悔い改め、告白するよりは、悔い改めを拒んで自らの正しさを主張したいと思う心が、世に根強くあるのだ。しかし信じる者は聖霊のうちにおいて絶えず罪を洗い清められ、御言葉を守り、キリストの道を歩むのである。

https://www.youtube.com/watch?v=2fuLEttN1gs

聖霊の時代は、わたしたちが「孤児のように捨て置かれた」時代ではなく、助け主である聖霊がわたしたちを慰め、弁護し、教えてくださる時代である。張ダビデ牧師はこれをいくつかの観点で解き明かしている。第一に、聖霊はわたしたちの「慰め主」(Comforter)として、傷ついた心をいやしてくださる。第二に、聖霊は「弁護者」(Advocate)として、わたしたちの弱さや罪をサタンが告発しようとするとき、イエス・キリストの功績に立って、わたしたちを罪に定まらないよう守ってくださる。第三に、聖霊は「助け手」(Helper)として、わたしたちが新しい生活を歩むための実際的な力と知恵を与えてくださる。第四に、聖霊は「助言者」(Counselor)として、わたしたちが無知や混乱に陥るとき、道を示し、イエス様の御言葉を思い起こさせてくださる。これらすべての働きが「わたしたちのうちに住まわれる」聖霊によって起こるというのがポイントである。

さらに張ダビデ牧師は、聖霊降臨以降は女性であれ男性であれ、奴隷であれ自由人であれ、誰でも聖霊を受けるのだと説く。旧約では預言者や王のように選ばれた少数にしか聖霊が下らなかったが、今や「すべての肉にわたしの霊を注ぐ」とのヨエル預言者の予言(ヨエル2:28-29)がそのまま実現したのである。そして使徒2章でペテロがこれを引用し、五旬節に一度に爆発的に注がれた聖霊の出来事を解釈した。これは社会的身分や文化的背景の壁を打ち破る出来事であり、教会が歩むべき方向を指し示すものであった。教会は人種や言語、地位や性別を超えて一つに結ばれた新しい共同体となった。現代においても、教会にはさまざまな階層やバックグラウンドを持つ人々が共存するが、彼らが一つの心で礼拝をささげ、互いに仕えることができるのは、聖霊が一つにしてくださる働きがあるからだ。

聖霊が臨まれるとき、おのおのに多様な賜物が与えられる。ある者は知恵の言葉や知識の言葉を与えられ、それを通して教え導き、ある者は信仰や病気を癒す力、預言、霊を見分ける力、異言やその解き明かしなどを与えられる(Ⅰコリント12章)。しかし大切なのは「すべての賜物が同じ聖霊から与えられる」ということ。そして、その賜物が与えられる目的は教会を建て上げ、隣人を仕え、究極的には神に栄光をお返しするためである。張ダビデ牧師は、ある特定の賜物が他の賜物よりも優れているわけではなく、教会の中では多様な賜物が調和を成す必要があると強調する。中には「異言がなければ救われていない」と極端な主張をする教会もあるが、これは聖書の語るバランスからは外れている。異言であれ預言であれ、すべての賜物は聖霊が「その御心のままに各人に分け与えてくださる」ものである。わたしたちに求められるのは、賜物を熱心に求めながらも、それによって高慢になったり他者を軽んじたりせず、愛をもって互いに仕え合う姿勢である。

聖霊は教会のために賜物をお与えになるだけでなく、一人ひとりの信仰生活の聖性をも高めてくださる。人は罪を犯すたびに、聖なる衣を汚すようなもので、だからこそ悔い改めと清めが必要となる。古い罪の性質を完全に追い出すことは容易ではない。パウロもローマ7章で「したいと願う善は行わず、したくない悪を行ってしまう」と嘆いている。しかしローマ8章で「今やキリスト・イエスにある者に決して罪に定められることはない」と言い、「いのちの御霊の法が罪と死の法からあなたを解放した」と宣言する。これは聖霊のうちで勝利が可能であることを示す。どれほど深い中毒や暗い習慣にとらわれていても、聖霊に立ち返るならば、主がお与えになる力によって打ち勝つことができるのだ。張ダビデ牧師は聖霊を「内的自由と解放の御霊」と呼ぶ。人間が自力では断ち切れない罪の鎖を断ち切り、新しい被造物として生きる道を開いてくださる力が聖霊にあるからだ。

聖霊がなさるもう一つの重要な働きは、「わたしたちを絶えず祈りへと導いてくださる」点である。パウロは「わたしたちはどう祈ればよいかわからないが、御霊が弱いわたしたちを助け、言い表せないうめきによってご自身がとりなしてくださる」(ローマ8:26-27)と語る。多くの信徒は長く祈ることを難しく感じる。考えが散漫になり、集中力が途切れて、数分で祈りをあきらめてしまいがちだ。しかし異言(霊の言葉)を受けると、自分の知性では妨げられない領域で聖霊が祈るよう導いてくださるため、長時間祈ることができる。異言は自分を高める賜物であり、預言は他者を高める賜物だ(Ⅰコリント14章)。異言がないから救われていないわけではないが、聖霊がお許しになるならば、異言であれ預言であれ、何であっても切に願い求める姿勢が大切だと張ダビデ牧師は助言する。

このように聖霊は教会のうちで豊かな実りと賜物をもたらしてくださる方である。教会史を振り返ってみても、偉大なリバイバルの時期にはいつも聖霊の強力な御業があった。五旬節の聖霊降臨から始まった初代教会の急成長、中世末の宗教改革、近代の大覚醒運動、現代の世界宣教の拡大――これらはすべて聖霊が動かされた結果である。したがって教会が衰退し、世の光と塩の役割を果たせなくなるとき、それは聖霊の火が消えかかってしまった結果だと言える。張ダビデ牧師は、教会が絶えず聖霊にあって新生し続けるべきだと教える。「聖霊なき教会は機械的な宗教活動を繰り返すだけで、世とまったく違った姿を示すことができない」というのだ。しかし聖霊に満たされた教会は、制度や形式にとどまらず、神のいのちがあふれ、人々の心をとらえて真の変化へと導く。

三位一体信仰とは、父なる神が独り子を世に送り、御子イエス・キリストがその派遣を受けて死に至るまで従順に従うことで救いを完成され、そして今や聖霊がその救いを各人に適用し、教会の共同体を通して広げていかれるという信仰である。ゆえに救いの完成はイエス様の再臨の時に成就するが、その再臨の日まで聖霊が常にわたしたちを導き、聖く作り上げてくださる。張ダビデ牧師は「聖霊の目的はイエス様に似た弟子を育て上げることであり、同時にイエス様の再臨を待ち望む花嫁として教会を整えることだ」と主張する。だからこそ、個人の敬虔さと共同体の成長は車の両輪のように並行して進まなければならない。聖霊は個人の聖化を助けるだけでなく、教会の交わりの中で互いを建て合い、罪を告白し合い、とりなしの祈りを通して聖さがいっそう確固たるものになるよう導いてくださる。

聖書は新天新地において神の民が永遠に主を賛美することを預言している(黙示録21章)。その日まで聖霊はあらゆる時代の聖徒たちを守られる。張ダビデ牧師はこれを「最後の審判の日まで聖霊がわたしたちを弁護してくださる」と表現する。イエス様の血潮によって罪の赦しを受け、いのちの書に名を記されたわたしたちを、聖霊はそのことをわたしたちの良心に絶えず証しし、確信させてくださる。世がいかに混乱していようと、たとえ教会の中に分裂や葛藤があろうと、聖霊が去られない限り、真のキリストの教会は滅びない。聖霊は痛みをもって嘆き、悔い改めを促し、変革の突破口をもたらしてくださるのである。

聖霊の時代の生き方とは、日々三位一体なる神の救いの歴史に参与することである。父の愛、御子の恵み、聖霊の交わりのうちで、わたしたちは神の子どもとなった。イエス・キリストの十字架によって罪の赦しと義と認められる恵みを受け、今や聖霊のうちにおいて聖さに至る道を歩んでいる。完全ではないにしても、聖霊の助けを祈り求めながら、小さな一歩を踏み出すたびに、内なる古い自我は弱まり、イエス様の御姿が現れてくる。張ダビデ牧師はこの過程を「神の国がわたしの内に、教会の内に、そして世の内に広がっていく過程」と要約する。わたしたちが世と区別された存在となるほどに、世もまた福音の前に心を開いていく道筋をたどるというのである。

ヨハネ14章に示された助け主なる聖霊の約束と三位一体の救い論は、キリスト教信仰の精髄であり、初代教会から今に至るまで教会はこれを通して歩みを続けてきた。張ダビデ牧師は「この信仰の遺産を守りながら、さらに聖霊の臨在を力強く体験する教会でなければならない」と訴える。個人レベルでは、聖霊の内住を日々慕い求め、御言葉と祈りによって聖霊と交わり、罪を退けつつイエス様をますます知る必要がある。教会共同体の次元では、聖霊が各肢体に分け与えられた賜物を合わせて一つの体として動き、互いの弱さを補い合いながら、世に向かって福音の良い影響を及ぼすことが重要である。

これらすべての働きの中心には、「父の愛を示されたイエス・キリスト、そしてそのイエス様の御言葉と愛をわたしたちの内に刻み、実を結ばせる聖霊」がいる。その背後には父なる神の永遠のご計画と摂理が広がっている。三位一体なる神のご計画のうちで、わたしたちは決して独りにされたり、道を見失ったりしない。助け主である聖霊は、今もわたしたちを導き、力を与え、悔い改めに導き、祈るように促してくださる。そのことを信じてしっかりとつかむ者にとって、どのような患難や迫害ももはや恐れるに足りない。死の向こうに復活があるゆえ、イエス様の勝利がわたしたちの勝利となるからである。その勝利の道に入った者は、聖霊のうちに日々新たにされ、愛と喜びと平安の実を豊かに結ぶようになる。

張ダビデ牧師は、ヨハネ14章に発せられた聖霊の約束がヨエル書2章、使徒2章、ローマ8章、ガラテヤ5章、Ⅰコリント12~14章など、新約聖書の至るところで具体化されていることを示し、これこそ新約の教会の本質的な力だと解釈する。そして今なお同じ聖霊がわたしたちに与えられているのだから、信仰によってそれをつかむだけでよいのだと強調する。このメッセージは、教会という共同体が単なる宗教団体ではなく、三位一体なる神の愛と力、そして聖霊の導きの中に生きる「いのちの共同体」であることを明らかにする。

わたしたちは聖霊の時代にあって、助け主なる聖霊の力を体験しながら、三位一体なる神をますます深く礼拝し交わるよう招かれている。イエス様の昇天の後、わたしたちは孤児のように残されたのではない。助け主なる聖霊があらゆる真理を教え、思い起こさせ、父の御心をイエス様の救いを通して味わわせてくださる。恵みの時代に生きるわたしたちは、旧約時代のごく一部の預言者のようにまれに聖霊を受けるのではなく、「主の名を呼ぶ者は誰でも」聖霊の賜物を受け取ることができる。そして聖霊のうちで互いに異なる賜物を分かち合い、イエス様を証しし、世に出てその愛と真理を伝える特権にあずかることができる。まさにこれこそ張ダビデ牧師が一貫して力説してきた「聖霊の時代が開かれた」という福音の核心である。わたしたちは三位一体であられる父と子と聖霊――すなわち唯一なる神を礼拝し、その方のうちに永遠にとどまることになるのだ。

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