
1. キリストにあって新しいイスラエルとして生まれ変わる旅
ローマ書12章1節から13節までの御言葉は、使徒パウロが私たちに「救われた者として、これからどう生きるべきか」を具体的に示している内容です。パウロはローマ書1章から8章までで救いの深遠な神秘を教え、9章から11章までではイスラエルと新しいイスラエルに関する歴史的意味を説明しました。この流れを通して私たちは、神の救済史の中には“中心史(主流史)”と“周辺史(周辺史)”があり、中心史は神が選ばれた民を通して歴史が導かれていく、という事実を悟ることができます。この文脈において「新しいイスラエル(New Israel)」とは何であり、私たちがキリストにあっていかにして新しいイスラエルとして生まれ変わることができるのかという重要なメッセージが示されているのです。張ダビデ牧師は、このローマ書の救済論と歴史論を基盤に、「救われた後に始まる新しい生き方」そして「イエス・キリストの弟子としてどう生きるべきか」を強調しています。
パウロが語る新しいイスラエルは、私たちの物語にも適用できます。旧約時代には選ばれた古いイスラエル(Old Israel)が存在し、新約時代に移り変わる中で、イエス・キリストを救い主と信じる異邦人たちを含む新しいイスラエルが誕生しました。パウロはローマ書9章から11章を通して、「新しいイスラエル」がいかに形成され、神の救済史がどのように拡張されていくのかを説明します。古いイスラエルは不従順を続けたゆえに、切り落とされた枝のようになり、その空いたところに異邦人が接ぎ木される過程が描かれますが、これこそが教会の起源でもあるのです。したがって今日、イエスを信じる私たちは「新しいイスラエル」に属する者として、歴史を導かれる神の計画の中で中心史を形成する“創造的少数者(creative minority)”としての召しを受けている点が重要です。
この概念をさらに具体的に理解するには、創世記6章にある「神の子たち」と「人の娘たち」の物語を振り返る必要があります。ここで言われる「神の子たち」とは、神が選び分かたれた者たちを意味します。ところが彼らが「人の娘たち」と結婚し、世と混ざり合ってしまった結果、ノアの洪水という審判が下されました。イエス様は「ノアの時代に起こったことのように、人の子の時代にも同じことが起こるだろう」(ルカ17:26)と語られました。つまり、神が選ばれた者が世に染まって罪の道を歩めば、その審判が臨み得ることを警告されたのです。張ダビデ牧師が多くの説教で強調するのも、この点です。私たちは世と妥協して生きるのではなく、キリストにあって聖なる者として区別されて生きなければなりません。世の風潮に倣わず、心を新たにすることで自らを変革し(ローマ12:2)、神が喜ばれ、かつ完全なる御心を見分けるべきだというのです。
パウロはローマ書8章で「被造物は神の子たちの現われを切に待ち望んでいる」と言いました。神の子が現われ、新しいイスラエルが立ち上がるとき、この地に神の国が到来するからです。張ダビデ牧師はこれを、教会が担うべき終末論的使命と結びつけて説き明かします。救われた後には必ず終末論を悟らなければなりませんが、それは単に終末の徴候を予言して恐れる次元ではなく、「神の国」をこの地に具現するように召されていることを認識することです。創世記9章と49章、そして黙示録22章に出てくる「巻物を洗う」というイメージは、「行いを清める」ことを意味します。イエス・キリストの十字架によって罪の赦しを受けたなら、日常生活においても絶えずその衣を洗い清めるべきだということです。世的な罪の習慣を捨て、聖別された生き方をすることこそが、新しいイスラエルの証しなのです。
パウロが救済論(ローマ1~8章)、歴史論(ローマ9~11章)を説き、続いてローマ書12章で「実践論」を語る流れは非常に論理的です。救われた者、そして神の歴史の中で新しいイスラエルとなった者は、ではどう生きるべきか。それは「人生全体が霊的な礼拝」にならなければならない、ということです。救われた者の生き方自体が礼拝であり、この礼拝は教会で捧げる形式的な礼拝にとどまらず、私たちの日常生活のあらゆる現場に拡大します。張ダビデ牧師が、様々な礼拝や説教で「人生そのものが礼拝でなければならない」とメッセージを伝えているのも、この点に基づいています。
パウロは私たちに「あなたがたの体を、神が喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい」(ローマ12:1)と勧めます。これは、私たちの生涯全体を神に差し出す献身を意味します。もはや自己中心的な生き方ではなく、隣人のために犠牲し奉仕する生き方を言うのです。世の人々はたいてい「自分のもの」を優先しますが、イエス・キリストの弟子として召された私たちは、まず他人のために犠牲する道を選ぶべきです。これこそが新しいイスラエルが歩む道であり、歴史において中心史として創造的少数者の役割を担う者たちの特徴でもあります。
あわせてパウロは「この世に倣ってはいけません。むしろ心を新たにすることで自分を変革し、神の善で、喜ばれ、かつ完全な御心をわきまえ知るようになりなさい」(ローマ12:2)と強調します。ここで言う「この世」とは、世の価値観や風潮を指します。世の中は「より多く得ようとする欲」と「互いに損得を計算する利己心」が支配しています。しかしキリスト者は、この世の流れに流されるのではなく、日々心を新たにしなければなりません。心が新たにされるとは、イエス・キリストの心を自分のうちに抱くことであり、その心こそ聖書が語る神の御心に従順する道なのです。
張ダビデ牧師は、「歴史を読む目」と「終末論的使命」を同時に持つように繰り返し強調しています。私たちが単に個人的な救いに満足するのではなく、救われた者たちがいかに集まって教会共同体を形作り、その教会が世の中でどのような影響力を発揮すべきか、さらに救済史全体の流れの中でどんな使命を担うかが重要だからです。イスラエルと新しいイスラエルに対するパウロの教えは、今日のキリスト者に「神の選びの目的」が何であるかを悟らせてくれます。選びを受けたということは、決して自慢や特権意識に浸るのではなく、その選びを通してむしろ低いところに下り、奉仕と犠牲に生きることを示しているのです。
特に創世記におけるヤコブの物語は多くを示唆します。ヤコブがエサウとどのように和解したかを見ると、ヤコブはエサウに七度もひれ伏して兄と和睦しました。イエス様はこれよりもさらに進んで「七度を七十倍するまででも赦しなさい」(マタイ18:22)とおっしゃいました。この御言葉は教会共同体の中だけでなく、個人間や社会・民族間の葛藤においても、究極的な解決は「和解と赦し」にあることを示しています。張ダビデ牧師がこうした「隔たりの壁を打ち壊す精神」を常に強調し、十字架こそその壁を取り壊す鍵だと教えるのもこのためです。エペソ書2章16節でパウロは「敵意を十字架によって滅ぼされた」と述べましたが、これはまさしく十字架が神の赦しと和解を具現する場所だからです。教会はこの十字架の精神を受け継ぎ、互いを敵に回して壁を築く世の風潮に対抗して「コイノニア(koinonia)」を実現しなければなりません。
「コイノニア」はギリシャ語で「交わり」や「交際」を意味しますが、単なる親睦ではなく、十字架によって隔たりの壁を取り壊す霊的な交わりを指しています。パウロは「ケリグマ(kerygma)」、すなわち御言葉の宣教によって救いの福音を伝えることに力を注ぎ、それを受け入れた者たちが共に交わりを成す「コイノニア」を大切にしました。私たちが救済論と歴史論を悟ったなら、次に教会の中で互いの隔たりを取り除いて真の交わりを成さなければなりません。その交わりの中で兄弟愛が実現するとき、私たちは初めて世の人々とは異なる姿、すなわち新しいイスラエルの証しを示すことができるのです。
しかしコイノニアで終わりではありません。コイノニアが成就したなら、次の段階として「ディアコニア(diakonia)」へと進む必要があります。「ディアコニア」とは「奉仕」「仕え」を意味します。ローマ書12章13節でパウロは「聖徒たちの必要を満たし、旅人をもてなすことに努めなさい」と語っています。これはディアコニアの具体的な姿です。もし愛しているなら、その人が必要としているものを実際に与えることで表されるはずです。ヤコブの手紙の著者も、「『安心して行きなさい。温かくして食べてください』と言いながら、その人の身体に必要なものを与えないのだとしたら、いったい何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2:16)と指摘しました。愛は言葉だけではなく、行動によって示されなければならないのです。
このようにローマ書12章1~13節は、私たちの「実践的な礼拝」が何であるかを示す核心的な教えを含んでいます。パウロは「この世に倣わず、心を新たにしなさい」と言う一方で、「キリストにあって私たちは一つの体であり、互いはその部分である」と強調します。そして最終的に「聖徒たちの必要を満たしなさい」と締めくくります。張ダビデ牧師はこれを私たちなりに言い換えながら、実際に必要としている人がいれば、さらに多く与えるように勧めます。たとえば宣教地でノートパソコンが必要だという話が出れば、「一台だけ」ではなく、できる限り多く送ってあげようというのです。これがイエス様が教えられた「もし一ミリ行くように強いるなら、共に十ミリを行け」(マタイ5:41)という黄金律であり、「求める者には与え、借りたいという者を断るな」(マタイ5:42)という御言葉を実際に実行する姿勢だというわけです。教会は「新しいイスラエル」として、互いの必要を満たし合い、一つの体となって世界の至る所で福音と愛を届ける責任を担っています。
ローマ書12章でパウロが伝えたかった核心は、「救われた者、神の歴史を知る者ならば、その信仰を『実践的な生き方』で証ししなさい」ということです。救いは単なる教理的知識で終わるのではなく、生活の変化につながらなければなりません。キリストの愛を抱き、世の風潮に逆らう道を歩み、互いに愛し尊重し合い、最終的には自分のものを分かち与える犠牲の人生を生きるとき、それが「霊的な礼拝」となるのです。
張ダビデ牧師は、こうした原理を教会内外で強調し、礼拝堂で捧げる礼拝だけでなく、私たちの日常の中で表れる仕えこそが真の礼拝だと力説しています。教会は諸国に宣教地を拓き、互いに助け合い、必要なものを惜しみなく供給する姿によって神の国の拡張を成し遂げるべきです。霊的な骨組み(骨格)がいくらしっかりしていても、それだけでは足りず、筋と肉(具体的な愛と奉仕)が伴わなければ、教会共同体は大いなる軍勢として立ち上がれないというエゼキエル37章の幻も、私たちに実践を促しています。すでに神が恵みによって骨組みを立ててくださったのなら、そこに筋と肉を加えて生気に満ちた教会を建て上げるべきです。それこそがディアコニアの精神であり、ローマ書12章が教える「聖徒たちの必要を満たしなさい」という具体的な命令なのです。
このすべての教えの根底には、イエス・キリストご自身が身をもって示された愛があります。主は「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか」と問われ、「わたしの羊を飼いなさい」と命じられました(ヨハネ21:15-17)。主を愛するなら、主の羊を養うことで証明しなければなりません。教会や共同体の中で、そして宣教地や隣人に対して、実際に必要とされているものを供給することで、その愛を表せるのです。これこそ、新しいイスラエルとして召された私たちが歩むべき道であり、ローマ書12章のメッセージと張ダビデ牧師の実践的な教えが示す核心でもあります。
2. 聖徒のディアコニアと実践的礼拝
新しいイスラエルとして生きるには、必ずディアコニアと実践的礼拝が伴わなければなりません。パウロがローマ書12章で示す具体的な勧めは、キリスト者が日常の中で「生活で礼拝を捧げる」方法を教えています。張ダビデ牧師は、こうしたパウロの教えが「救いの教理」(ローマ1~8章)と「イスラエル・新しいイスラエルの歴史論」(ローマ9~11章)を完成させる実践論であると説きます。どんなに教理を学び、歴史を深く理解していても、愛を生活の中で実行しなければ、すべての知識は無意味になってしまうからです。
ローマ書12章1節でパウロは「そういうわけで、兄弟たち。神の憐れみによってあなたがたに勧めます。あなたがたの体を、神が喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。これこそあなたがたの霊的な礼拝です」と宣言します。ここで使われる「そういうわけで(그러므로)」という接続詞は、前で語られた救いと歴史に関するすべての説明が、今結論へとつながることを示唆しています。救われた者はどう生きるべきか。その答えこそ、私たち自身を生きた捧げものとして差し出す人生です。かつては動物のいけにえを捧げて神に礼拝したなら、今はイエス・キリストの十字架によって救われた私たちが、私たちの生き方をすべて捧げる必要があるのです。これが「生きた状態で絶えず神に捧げられる」ことですから、「霊的な礼拝」となるわけです。
生き方自体が礼拝となるためには、まず世の価値観に染まらず、日々心を新たにする必要があります(ローマ12:2)。世は自己満足と利己心に焦点を合わせますが、神の子どもは自己犠牲と隣人愛に焦点を合わせます。そこでパウロは、賜物を与えられた者たちがその賜物をどう用いるべきか、互いに体の部分としてどう仕え合うべきか(ローマ12:3-8)を具体的に語ります。そのすべての教えの結論が「聖徒たちの必要を満たし、旅人をもてなすことに努めなさい」(ローマ12:13)という御言葉へとつながるのです。ここで「聖徒たちの必要を満たす」というのは、単に物質的に困っている人に財政的援助をするだけを意味しません。ときには霊的な慰め、共感、ケアなど、多様な形の「必要」を満たすことを含みます。
張ダビデ牧師は、このローマ書12章13節を「ディアコニア」の本質として解釈し、教会が実践しなければならない最も大切な働きだと強調しています。教会は御言葉を宣べ伝えてケリグマをもたらし、その御言葉を受けた者たちが共に交わりを成すコイノニアの喜びを味わいます。けれどもそこで終わってはなりません。キリストの愛があふれ出し、実際に誰かの必要を満たす奉仕と仕えにまで至らなければいけないのです。それがディアコニアです。このディアコニアが活発に行われるとき、教会共同体は骨が生き返り、筋と肉がついて大いなる軍勢になるというエゼキエル37章の幻を実現することになります。
では、具体的にどのようにして「聖徒たちの必要を満たす」ことができるのでしょうか。張ダビデ牧師はいくつかの例を挙げて説明しています。身近な例では、海外の宣教地でノートパソコンや車両、あるいは医療用品などが必要だと要請があれば、それを惜しみなく送ることが愛の実践です。これはマタイの福音書5章41~42節でイエス様が教えられた「もし一ミリ行くように強要されたら、いっそのこと十ミリまで行ってあげなさい。求める者には与え、借りたいという者を断らないようにしなさい」という黄金律を守ることです。相手が一つを求めるなら、むしろ二つを与える態度がイエス様の弟子の姿勢なのです。この愛の実践は、「あなたを愛しています」と口で言うだけでなく、実際に必要なものを与える具体的な行動として表れます。
さらにこれを、教会が個人的・地域的に行う奉仕を越えて、世界的にネットワークを築き、互いに協力し合う「世界宣教のビジョン」へと拡張することが求められます。張ダビデ牧師はG20という概念を引用しつつ、この地の様々な国々に建てられる教会が互いに助け合い、また他の国にも教会を建てていくことで神の国を拡大すべきだと説きます。ある宣教地は物質的資源が豊富でも霊的資源が乏しいかもしれませんし、別の宣教地は人的資源に恵まれている一方で財政が脆弱かもしれません。教会が一つの体となり、この不足部分を補い合うことで世界各地に神の福音が力強く伝えられるのです。これが「聖徒たちの必要を満たす」ディアコニアの拡張された姿だと言えます。
ローマ書12章9節以下では「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟を愛して互いに親しく交わり、尊敬することにおいては互いに先を譲り合いなさい。怠らず励み、霊に燃えて主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、苦難に耐え、常に祈りに励みなさい。聖徒たちの必要を満たし、旅人をもてなすことに努めなさい」と語られます。これらの勧めはいずれも実践的なレベルに関わります。愛しなさいと言うだけでなく、具体的にどう愛すべきかを示しています。兄弟を尊敬し、熱心に主に仕え、希望を抱いて苦難を忍耐し、絶えず祈り、最終的に具体的な援助をしなさい、というわけです。私たちの生活の中で誰かが必要だと訴えたとき、その要求を積極的に聞き、さらに「彼(彼女)が言葉に出せなかった必要」はないかを見つめて先んじて与える態度が、真の愛なのです。
教会共同体がこうしてディアコニアを実践するとき、世は教会を通してイエス・キリストの姿を見ることになります。初代教会の時代に信じない人々が教会を見て「見よ、彼らが互いに愛していることはなんと素晴らしいことか」と驚嘆したように、今日の社会でも真の愛と奉仕の姿が見当たりにくいこの時代に、教会がローマ書12章の御言葉に従って具体的に仕えるならば、大きな感動を与えるに違いありません。これこそ教会が担う「世の光」と「地の塩」の役割であり、福音を伝える最も効果的な手段とも言えます。
しかし、このような実践は容易ではありません。人間は本質的に自己中心的であり、依然として世の風潮に染まりやすいからです。そこでパウロは「あなたがたはこの世に倣ってはいけません」と切実に勧告しています。また、ディアコニアが行われるためには、教会内部における「壁を壊す作業」が先に必要です。エペソ書でパウロは、十字架が敵意を打ち壊す力だと述べていますが、これは教会内に生じる葛藤や偏見、差別、そして互いに対する誤解などを十字架の精神で解消しなければならないことを意味します。こうしたプロセスを経てコイノニアが成し遂げられ、ようやくディアコニアが可能となるのです。
張ダビデ牧師は、複数の説教において聖書を読む際に「恐れを感じる箇所」が必要だと繰り返し語っています。たとえばヤコブが兄エサウに会うために七度もひれ伏す場面(創世記33:3)を読むとき、私たちは「私はあれほど純粋な和解の身振りができるだろうか?」と自問するでしょう。同じ文脈でイエス様が「七度を七十倍するまで赦しなさい」とおっしゃったとき(マタイ18:22)、人間の限界を超えた赦しを要求される主の命令に恐れを感じるものです。しかし、そのような恐れは私たちを絶望に追い込むためではなく、むしろ聖霊の助けによってその愛の水準に少しでも近づこうとする動機を与えるものです。最終的に教会が「七度を七十倍」赦しと和解を実践するならば、世ではおよそ見つけることが難しい水準の愛が教会に実現されるはずです。
これこそが「新しいイスラエル」の生き方です。古いイスラエルが律法を守れずにつまずいたなら、新しいイスラエルとして召された私たちは、イエス・キリストの十字架を見上げ、日々悔い改め、自分を低くして聖徒に仕えなければなりません。パウロはローマ書12章の前後だけでなく、コリント第一の手紙やエペソの手紙、ガラテヤの手紙など、複数の書簡を通して絶えず「愛をもって互いにしもべとなりなさい」というメッセージを伝えました。教会が世と区別される点はまさにこの「愛の実践」であり、それこそがディアコニアの完成となるのです。
さらに、このディアコニアは福音の宣教とも密接に関係します。単に慈善活動や社会奉仕に留まるのではなく、イエス・キリストの御名によって行わなければなりません。パウロも宣教活動の中で諸教会を世話し、エルサレム教会のために献金を募り、異邦人教会とユダヤ人教会が一つとなるように仕えました。私たちはこうした姿をディアコニアの典型として見習う必要があります。私たちの奉仕が人々に「人間的な温かさ」としてだけ伝わるのではなく、「ああ、これがイエス・キリストの愛なのだ」と実感できるように、福音的なメッセージが土台にあることが大切なのです。
「実践的礼拝」としてのディアコニアは教会の中から始まるべきです。まず信徒同士が互いの必要を探し、満たすことを学ぶとき、その愛が自然に教会の外へと流れ出し、社会的奉仕や分かち合いへと拡張されます。張ダビデ牧師は、教会が内面で信徒を大切にしていなければ、外に向かってどんなに華やかな宣教やイベントを行っても、その真実味が疑われると指摘します。「聖徒たちの必要を満たす」という言葉には、最も身近な兄弟姉妹の状況を注意深く見守り、助けるという意味が含まれています。こうして内側から愛があふれるとき、それは外へと自然に流れ出て、真の「世の光」となることができるのです。
ローマ書12章にある「聖徒たちの必要を満たし、旅人をもてなすことに努めなさい」という御言葉こそが、現代の教会が回復すべき核心であり、同時に個人の信徒が「本物の礼拝」を確認する指標でもあります。1時間の礼拝堂礼拝だけで終わるのではなく、その礼拝で受け取った恵みと御言葉を持って、日常生活の中で、近くにいる隣人や宣教地、他国の兄弟姉妹へと具体的な助けを提供するのです。パウロが語る「人生こそ礼拝」という命題は、最終的にこのディアコニアが実践されるときに完成します。
張ダビデ牧師は「もし私たちがキリストを愛するならば、必ず主の羊を養いなさいと命じられた御言葉を実践しなければならない」と力説します。養うとは、単に食物を与えるだけでなく、霊的に必要な御言葉を与え、物質的に困っている人には必要な資源を提供し、心が疲れている者には慰めを伝えるなど、そのすべてを含むのです。教会共同体は、この「羊を養う働き」のために互いに協力し、それぞれ与えられた賜物を活かして奉仕に参加する必要があります。ある人は教えることが得意であり、別の人は慰めやケアが得意かもしれません。また財政的に豊かな人は物質を分かち合うことができ、行政能力に優れた人は組織を円滑に運営できるでしょう。こうした多様な賜物が集まって一つの体を成すとき、教会は大きな影響力を発揮できます。
したがって、ディアコニアはちょうど身体の中の筋肉のようなもので、骨格だけが頑丈でも機能しない人間が、筋肉によって動き、力を発揮するように、教会共同体もディアコニアによって実質的な行動力を得るのです。エゼキエル37章が語る「大いなる軍勢」とはこうした姿を意味します。谷の干からびた骨が立ち上がるためには生気、すなわち聖霊の働きも必要ですが、その骨を結び合わせる筋と肉がなければなりません。既に私たちにはイエス・キリストを信じる信仰という骨格があります。そこに奉仕と愛という筋肉と肉を加えなければなりません。これがなければ、教会は「干からびた骨」と大差ありません。
このようにローマ書12章1~13節のメッセージを具体的に実践していく過程で、私たちは初めてイエス様が語られた「真の弟子道」を学びます。主は弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)とおっしゃり、また「わたしがあなたがたに模範を示したのだから、あなたがたもそのとおりに行いなさい」(ヨハネ13:15参照)とおっしゃいました。イエス様は直接弟子たちの足を洗い、五つのパンと二匹の魚の奇跡を通して飢えた群衆を養い、罪人と共に食卓に着かれました。これらすべての場面がディアコニアの手本といえます。教会がイエス様のこうした愛を実践するならば、世は教会を通して神の国を垣間見、福音に触れる機会を得られるでしょう。
忘れてはならないのは、このすべてのディアコニアが単なる人道的な奉仕や慈善事業にとどまらず、「霊的礼拝」の延長線上にあるという点です。救われた私たちが当然捧げるべき生けるいけにえなのです。張ダビデ牧師は「神が喜ばれる聖なるいけにえとなりなさい」というパウロの勧め(ローマ12:1)を味わいながら、本当の礼拝は結局、自らを犠牲にする現場の中で実を結ぶのだと語ります。礼拝堂で美しい賛美を捧げ、素晴らしい御言葉を聞くだけで礼拝が完成するのではなく、その後すぐに聖徒たちの必要を満たす働きに没頭するとき、神が喜んで受け取られる「霊的礼拝」となるのです。
このように、ローマ書12章1~13節が示す「キリストにあって新しい生活」とは、自分自身を生けるいけにえとして捧げ、この世の風潮に逆らって心を新たにし、教会の中で互いの異なる賜物を尊重し、十字架によって隔たりの壁を取り壊し、兄弟姉妹に具体的な愛を施すディアコニアへと行き着きます。その過程において教会は成長し、世は教会を通してイエス・キリストの愛を目の当たりにします。そして、この全過程の背後には「神の救済史」が流れています。張ダビデ牧師が繰り返し強調してきたように、救済史とは神が人間を罪から救い出し、終末論的完成に導かれる全体の歴史を指し、その中心にイエス・キリストの十字架と復活、そして聖霊の働きと教会があるのです。
私たちに求められていることは単純です。「御言葉を聞き(ケリグマ)、互いに交わり(コイノニア)、奉仕と仕えによって愛を実践する(ディアコニア)」ことです。そうすることで、私たちはイエスの弟子として「新しいイスラエル」のアイデンティティを表し、神に栄光を帰することができます。ローマ書12章は、この一連のプロセスを要約した実践マニュアルと言えます。救われた者ならば、必ずこの御言葉の前で自分自身を振り返り、「私は本当に生活で礼拝を捧げているのか? 聖徒たちの必要を満たし、旅人をもてなすことに努めているのか?」と自問すべきです。張ダビデ牧師の教えは、この問いを改めて鮮明にし、私たちを具体的な実践へと駆り立てます。
したがって私たちは、個人としても、共同体としても、今日聞いた御言葉を心に刻み、すぐに行動に移すべきです。誰かが必要を訴えたなら、「私にあるものでどれだけ渡せるだろうか?」と悩む以前に、「もっと多く、もっと惜しみなく与える方法はないだろうか?」と考えるのです。それこそがイエス様が示された愛であり、ローマ書12章が語る真の礼拝なのです。そして、この礼拝を実際に捧げる人々が集まった共同体は、誰が見ても「彼らはまさにキリストの弟子なのだ」と認めざるを得ない姿となるでしょう。これこそ救われた後の生き方であり、新しいイスラエルとしての使命であり、張ダビデ牧師が絶えず訴えてきた福音の実践的結論でもあるのです。